秩父 山里 生活記

1.過疎の現実と市場原理主義

 1979年に一文を卒業した。卒業論文は、埼玉県秩父地方の幕末の村落構造の変化をテーマにしたもので、深谷克己先生に提出した。当時の問題意識は、一人前の人間として、最低限何をしなければならないか、というものだったと思う。

 史的唯物論の考え方によれば、人間とはまず、生産する存在である。歴史とは、社会構成体が発展することだが、その変化の基底をなすのは、人間の日々の生産労働の量的・質的変化である。幕末関東のひとつの村をミクロ的に眺めることによって、生産労働の変化から村落内部の政治的変化の関連を探り、さらにそれを、「世直し状況」という時代状況の中に位置づけることによって、生産労働に日々携わっている個人が、歴史を動かす存在たりうることを実証したいというのが、卒論のモチーフだった。

 能力的な制約により、生産の部分についてはろくに実証できなかったが、村落の政治的構造の変化については、まずまずよく書けたと思う。革命運動が革命を起こすのではなく、革命に向かう根源的な力は、日々の生産労働の中に存在するのではないかと思っていたのだが、生産現場に生きる個人が、歴史を動かすのだという確信を得ることができたのは、自分にとって、とても大きかった。

 1980年4月から、学校組合立秩父農工高等学校皆野分校に職を得たのは偶然だったが、卒業研究と勤務のフィールドが重なり、やる気十分で秩父に赴任した。早大で学んだ教育学は、「教育活動の主体は子どもであり、教師は子どもの学びを組織し援助する存在である」という考え方に立脚していたと思う。教育学は、ライフワークに関する勉強だから、自分なりに真剣に取り組んだし、当たり前のことだが、人間の本質にかかわる勉強だから、とても興味深かった。就職後、毎日の教育実践も、大学で学んだ考え方を基本に試行錯誤することができた。それは、進学「指導」や服装「指導」などのように、教育にとって本質的でない「指導」に埋没することなく、なんのための教育かを常に問い返しつつ、生徒と接することができる職場環境に恵まれていたからである。

 ところが、赴任後ほどなく、勤務校の生徒募集を停止するという話が舞い込んだ。当時、発足したばかりの鈴木善幸政権が「増税なき財政再建」を掲けて「行革」路線を模索していた。勤務校は学校組合立だったが、当時の自治体首長・議員たちは、「投資効果の低い学校はなくすべき」という考え方だった。これに対し、生徒・保護者・卒業生・地元企業は、「(このような言葉は使わなかったが)教育を受ける権利を守れ」と考えた。生徒たちから「学校を守ってくれ」と言われて、赴任後半年もたっていなかったのだが、学校存続を求めて署名運動を行った。山里を走り回るために、バイクの免許もとった。運動は実らなかったが、教師として生きていく上での土台を、ここで固めてもらったと思っている。

 その後、1984から4年間の普通高校(県立深谷第一高等学校)勤務を経て、1988年から今度は県立小鹿野高等学校の定時制に赴任した。31歳の時である。ここも小規模校だったが、やはり生徒や同僚に恵まれた上、埼玉県高等学校教職員組合(埼高教)定通部の皆さんからも刺激を受けて、腰をすえて理想的な学校づくりに燃えた。

 この学校では、高校教育の目標は、青年期の発達課題に即した人間形成であるということを教育活動の基本に据えていた。1990年前後は、生徒急増期で、全日制高校に入ることができなかった多くの人々が、定時制の門を叩いた。その中には、中学校以来の荒れを引きずってくる生徒も少なからず存在した。その後、生徒数は漸減するが、今度は、年配者・不登校経験者・全日制中退者・心身に障害を持った人々・在日外国人など、全日制高校の教育に適応困難な人々が定時制を訪れるようになった。どのような人々が対象であろうと、高校教育の目標が変わるわけではない。主として学校行事や生徒会活動などの取り組みを通して、彼らの多くが飛躍的に成長し、自分と学校に誇りを持って卒業していった。

 ところが、1997年秋に、埼玉県教委によって小鹿野高校定時制も閉鎖することが決められた。皆野分校のときと違って、こちらは生徒急減期を前にして、埼玉県の高校教育を全面的に再編成する流れの一環だった。このときも、皆野分校の時と同じように「教育を受ける権利を保障せよ」という形で、生徒・保護者とともに約8000名分の請願著名を集めて闘った。埼玉県教委は、請願法第5条の「この法律に適合する請願は、官公署においてこれを受理し誠実に処理しなければならない」との規定を公然と無視して、審議も回答もしないまま、放置し続けている。この運動の中で、現在の日本のあり方についても、じつに多くのことを考えさせられた。

 原生林は別だが、日本の森林(二次林と植林地)は人の手が入ることによって維持されている。農地はもちろんである。日本列島の環境は、人が暮らすことによって維持されてきたといっても過言ではない。

 秩父山地の人の歴史は、約1万年前の縄文時代に始まる。弥生遭跡と比べて縄文遺跡が圧倒的に多い原因は、水田耕作が困難だというだけでなく、採集経済でも、ある程度生活可能だったからではないかと考えている(山岳地帯を通路とした広範囲の交易は縄文時代から行われていた)。

 文献が乏しいため、詳細を明らかにすることはできないが、畿内政権が成立して以降も、列島の山間部には、多くの人々が暮らしていた。弓馬に堪能な人々の多い関東の山村は、武士団の中核部隊を輩出したが、その状況は基本的に、戦国時代が終了するまで続いた。戦乱が終結した江戸時代以降も、山村はつい先年の高度経済成長期まで、森林と少しの田畑に依存して暮らしをたてる多くの人々が生活する場であり続けた。

 高度経済成長期以降、この国の農山漁村は、人間・資源・環境を収奪され続けた。山村に関していえば、農業の衰退のみならず、林業の不振、公共事業依存型経済の浸透、ダム・産廃処分場・リゾート施設など「迷惑施設」の建設などにより、生活の基盤が掘り崩された。また、都市部との歴然たる生活格差は、お金になる仕事があり、消費生活の華やかな都会へと向かわせた。

 資本主義経済の今日、都会の存在や消費的生活の存在を否定することはできない。しかし、消費的生活や都会が存在するためには、一次産品を生産する農山漁村、なかでも水や空気を始めとする生命の存在基盤を生産している山間部の存在が前提となるはずだ。

 貨幣は財の交換価値を表現する尺度であるが、生存基盤は交換可能でないから、その価値を貨幣によって表現することはできない。貨幣によって価値が表されなければ無価値であるかのように考えるのが、今の日本の資本主義の浅ましさだろう。この国を覆ってしまった市場原理主義的資本主義の考えでは、より合理的で、より大きな利潤をもたらすのが理想の社会であろうから、農山漁村の存在自体が無駄で無意味な最たるものということになろう。

 日本列島は、太平洋プレート・フィリピン海プレートの移動に伴う造山活動によって成り立っている。国土の大部分を山岳地帯が占め、大きな沖積平野が存在しないのは、この列島の宿命である。古代から中・近世期に、現在中山間地域と呼ばれる山間部に人口の多くを擁していたのは、それがこの列島で暮らす上で、合理的だったからである。

 学校が閉鎖される理由は、生徒数が少ないからと説明される。しかし、列島の生存基盤を生産する山村で暮らすことがあたかも罪であるかのように、教育を受ける機会を奪われるという罰を受けねばならないというのは、どう考えても不合理ではないか。

2.在来イワナから学ぶこと

 登山を趣味とするようになったのは、1988年頃からだった。学生時代に、K君の下宿の本棚に山岳雑誌がおいてあるのを見たとき、なかなかいい趣味だなあと思ったのだが、ご存知のようにアルバイトと学生生活に追われていた当時の自分にとって、登山になど行けるはずもなかった。就職後、仕事に慣れ、生活にもある程度余裕が出てきたのが、その頃だった。

 それ以来、有名・無名のピークハント、森林彷程、渓流遡行などに、単独ないし友人とともに、いそしむようになった。日本特有の登山の一形態に、沢登りがある。概ね硬い岩盤の隆起によって成立した日本列島において、河川の源流は、岩や滝や瀞状の峡谷などが連続し、美しい景観を作り出している。沢登りは、通過困難な岩場や滝を乗り越えながら、眼前に展開する予想外の景観を嘆賞する登山の一形態である。そのフィールドである源流域は、陸封されたヤマメやイワナの生息域でもあった。

 登山の楽しみの一つは、山菜・木の実・きのこ・渓流魚など、山の恵みをいささかいただく点にある。源流域に出かける機会が多かった時期に、ずいぶん、ヤマメ・イワナを殺生したのも事実である。

 しかしその後、大いに遊んでもらったイワナというサカナの過去と未来について、かなり真剣に考えるようになった。イワナについて考えるようになった原因は、イワナの釣り味や表情・生態など、さまざまな点における、彼らの強さと弱さになんとなく共感する部分があったのかも知れない。

 第4間氷期の到来以来、水系ごとに独自の進化を開始したイワナは、列島の地域的個性の象徴的存在であるが、ダムや無駄な砂防堰堤を始めとする公共事業や、イワナが釣れれば何でもよいという釣り人の乱放流によって、列島各地で在来種は絶滅ないし絶滅寸前である。

 2000年には、畑違いではあるが、「秩父イワナ序説」という小論文を書き、2005年には友人たちと、『秩父イワナ 在来種を守るために』という小さな本を書いた。ここでは、秩父源流域に生息するイワナが、地球規模の気候変動と地殻変動、及び山村住民による人為的移動によって現在に至っていることを明らかにするとともに、イワナの地域個体群の保存を訴えた。在来イワナを守る活動を通して、改めて、地域的個性の奥深さを感じつつある。

3.地域で暮らす知恵と技

 1998年か1999年から(正確には失念した)畑を借りて、農作物を作っている。最初は2〜3畝ほどだったが、今は1反歩ほどあると思う。年間おそらく50種類ほどの作物を順番に作っている。さらに2004年から、畑とは別のところに田んぼを借りて、米作りも始めた。こちらは8〜9畝ほどである。自足には程遠いが、自家の食については、ある程度の自給ができている。(水田は2018年を持って終わりにした)

 ちなみに、近世史研究ではかつて、このような人々を、「農業だけでは生活できず農間諸稼ぎによって自家経営を補完しなければならない貧困層」を意味する「半プロレタリア」と規定していたが、今では、農業だけで生活する「農民」など始めから存在せず、農民身分に属した人々が農業以外の生業にも携わる「百姓」だったことが明らかになっている。考えてみれば、「農業」とは、資本主義経済の登場以後成立した概念なのである。人は、食べ物を得る営みと、それ以外の「稼ぎ」に日々、従事しながら生きてきたのである。

 何の本で読んだかこれまた失念したが、江戸時代に尾張地方だけで数十種類にのぼる蕪や大根の品種があるという資料を見たことがある。一種類の野菜にこれほどたくさんの品種が存在する理由は、むかしは農作物もグローバル化されてなかったからではない。事実はその逆で、どこかから導入された蕪なり大根が、その地方独特の地質や気候条件に適するよう改良されて、固定品種化されていったのである。

 日本列島は、寒暖の差が激しく、年間を通して湿潤であるといわれる。一般論としては、それで正解なのだが、地形や地質は複雑きわまりなく、日照や風向き・風の質などもところにより、また季節によってさまざまである。『聞き書埼玉の食事』(農文協)という本に埼玉県の特産の一つである、「深谷ねぎ」の産地について、「この一帯は利根川のたび重なる氾濫によってできた肥沃な砂壌土である。この肥えた土と冬の赤城おろしが、やわらかくて甘みのある深谷ねぎをつくり出している」という記述がある。利根川の氾濫による壌土が厚く堆積し、赤城おろしが吹きつける平坦地といえば、深谷・本庄一帯しかない。同様に、秩父の在来農産物も各種ある。おそらく「信州芋」を意味する「しんしいも」もしくは「大滝イモ」と呼ばれるジャガイモは、岩石が崩壊したような痩せ土・かつ日照不足気味でも生育する強健な芋であるが、秩父地方最奥地の旧大滝村で作られていた。小さな芋で食味はさほどよくなく、収量も少ないが、芋田楽にすると、うまい。

 俗に伝統野菜などと呼ばれる地方在来の野菜は、その土地の地質と気候の中で暮らす人々が、知恵と工夫を在らして、作り出したものであり、自然環境と人間の共同作品というべきものである。

 当たり前のことだが、農作業や山林作業で使う道具類も、使う場所によって形状が異なる。土の柔らかな平野部で使われる鍬は、土より石ころの多い秩父の畑では使いものにならない。複雑な地勢・気候を有する日本列島には、無数の地域的個性があると言っても、過言ではない。

 異なる地域には異なる暮らし方がある。地域に即した暮らし方(衣・食・住)は、地域で暮らす知恵と技の集大成である。限りなく多様な形で存在する地域における暮らし方の総体が、日本列島で生きる知恵と技の集大成なのであり、それがこの列島における「文化」の核心なのである。

 秩父に人類が足跡を残し始めたのは、日本列島が形成されてまもなくのことだったから、ここまで約1万年の蓄積があることになる。われわれが引き継がねばならないのは、知恵や技術の先っちょではなく、量・質ともに膨大な「蓄積」なのである。しかし今やすべては、老人たちとともに、消え去りつつある。

 友人に黒沢和義氏というイラストレーターがいる。彼は、秩父地方の山里で暮らしてきた老人たちから衣・食・住・労働などに関する丹念な聞き取りを行ない、詳細な画文にして残す試みを続けている。東京や秩父で開かれる彼の個展を見に行くと、数十人の老人たちの笑顔とともに、失われつつある山暮らしの知恵と技の奥深さを感じることができる。

 経済・情報の「グローバル」化、別名市場原理主義経済は、より合理的に利潤を追求できるよう、経済・社会のシステムを改造する動きだと思うが、その「合理」性は、きわめて近視眼的であり、1万年を生きてきた人間が、今後1万年を展望してどのように生きるべきかというような、本質的にグローバルな問題に対しては、何の答えも出すことができない。

結語

 社会が変化するといっても、何もかもが変わってしまうわけではない。新しくなる部分もあるが、変わらない部分も大きい。よいものは新しくなるべきだが、よいか悪いかは、日本列島で暮らす上で長期的に見てそれがよいか悪いかを判断したほうがよい。

 人は遠くから来て、遠くに行く。そして人が生きる場所は、地域である。

資料@ 一年間のおもな農作業
1月 堆肥作り。ビニールトンネルで春野菜播種。味噌の仕込み。
2月 堆肥作り。ジャガイモ予定地準胤キャベツ・アスパラガスなどの株分け。レタスなどの播種。ナメコ用コナラ原木の伐倒。ルバーブの株分け。
3月 堆肥作り。ジャガイモ植付け。ピーマンなどの播種。冬葱の播種。きのこ用原木の玉切り・種菌を植菌。
4月 ウリ類・オクラなどの予定地準備。里芋種芋の植付け。
5月 ジャガイモ土寄せ。ウリ類(カボチャ・キュウリ・スイカなど)・大豆・落花生・インゲン豆などの播種。
陸稲の播種。ナス・ピーマン・トマトの植付け。ヤーコン苗の植付け。山芋・生姜・コンニャク芋などの種芋の植付け。ウド収穫。
6月 ジャガイモの収穫。玉ねぎの収穫。冬葱苗の定植。田んぼの草刈り。田植え準備。田植え。麦刈り。サツマイモ苗の植付け。ラッキョウ・ニンニクの収穫。
7月 田んぼの除草。秋キャベツ・ブロッコリー・人参などの予定地準備、播種。
8月 大根・蕪・菜類の予定地準備、播種。
9月 田んぼの防鳥糸張り。玉ねぎの播種。かき菜の播種。ラッキョウの植付け。
10月 水稲・陸稲の稲刈り。ほうれん草播種。コメの脱穀。サツマイモの収穫。里芋の収穫。ニンニクの植付け。
11月 シイタケ用コナラ原木の伐倒。玉ねぎ苗の植付け。ヤーコン・山芋の収穫。大豆・小豆の選別。落ち葉集め。堆肥作り。
12月 堆肥作り。落ち葉集め。春野菜の準備。

資料A 秩父イワナ

橙色斑の色・白色斑の大きさ・ヒレの色などの形態的特徴から推察される。近年は、形態的特徴ではなく、遭伝子的な特徴を解析することによって、在来系か、非在来系かを明らかにする方法が用いられている。

WEBサイトのURL http://www.yasutani.com/「山と渓ときのこと酒と」

本稿は2012年7月に早稲田大学第一文学部クラス・サークル協議会(略称CC協)OB会で報告したものである。

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