清水吉二『群馬自由民権運動の研究』

 群馬事件を中心に、上毛自由党とその周辺の実像を明らかにした書。
 名著だと思う。

 上毛自由党は、福島・栃木・茨城・埼玉など関東自由党の一拠点だった。

 明治17年当時、関東地方の自由党組織は、板垣や星ら自由党中央の合法路線・解党路線とは異なる、独自の非合法路線をとりつつあった。
 その中心は大井憲太郎で、福島事件において権力と激突し、非合法路線に合流した福島自由党のメンバーも加えて、政府転覆の機をうかがいつつあった。

 栃木・福島のメンバーは、顕官暗殺を機に動乱状態を作り出そうとして、宿敵・三島通庸への復讐を画策していた。
 茨城・群馬のメンバーは、大衆的な武装蜂起により革命状態を作り出し、政府転覆につなげようとしていた。

 ことに西上州では、地租軽減や負債問題を取り組む中で、天賦人権思想に目覚めた豪農だけでなく、必ずしも豊かでない一般民衆を自由党に組織化しつつあり、秩父の自由党もまた、西上州の自由党と歩調を共有していた。

 明治17年4月に、照山俊三殺害事件を発生し、上毛自由党の最高幹部たちが手配されて、アクティブメンバーの多くが逮捕された。
 秩父でも在地自由党組織の最高幹部だった村上泰治が逮捕されたことは、大きなダメージだった。

 そのような中で、群馬事件が起きた。
 意図されていたのは政府転覆に向けた武装蜂起だったが、具体的には、のちに加波山事件を起こす人々の発想にある程度類似した、テロリズム+挙兵という計画だった。
 指導部の意思統一が不十分だったこともあり、革命部隊による高崎・岩鼻襲撃は実現せず、陣場ヶ原での決起と生産会社襲撃だけに終わった。
 この事件で、上毛自由党はさらに多くの幹部を失った。

 しかし、上毛自由党で捕まらずに残った新井太六郎や小柏常次郎らは引き続き、組織活動を継続した。
 彼らは、村上泰治のいなくなった秩父の自由党組織とも連携して、次なる運動に取り組んでいった。

 秩父事件に向けた組織活動は、群馬事件が散発に終わったことの反省を踏まえ、一般民衆を革命の実働部隊として、自由党へと組織する方法を模索して行われたと思われる。
 上州自由隊に参加した人々が、信州まで戦い抜いたのは、かれらの信念が固かったことの証である。

 本書は、群馬事件だけでなく、明治初年の産業や経済状況について、緻密に分析されている。
 経済的土台をしっかり分析したのちに、政治的行動や思想などの分析に至る、オーソドックスな歴史叙述が、読んでいて快い。

(1984,11 あさを社 2021,12,24 読了)