「民衆」というより「常民」と言えるような人々から「日本」がどのように見えるかについて、記している。
登場するのは、主として東北・沖縄・水俣などの常民だが、1984年に書かれた秩父事件論も含まれる。
著者が書く歴史には、生身の人間が登場して、ただ一度の人生を懸命に生きる。
近年のアカデミズム史学には、苦悩する人間より、概念や記号のように抽象化された人間が存在して、まるで化学反応のように一定の動きを見せる。
研究者として食っていくにはそれでいいのかもしれないが、歴史を読む読者の心を打つものでない。
純然たる学術論文である「困民党と自由党」に描かれた人々にさえ、苦悩と共感に満ちている。
人間を記号的に解釈する学問に、そのような感動は少ない。
実戦経験はないが、著者は学徒出身の海軍将校として、軍隊における理不尽な暴力をも体験されている。
戦後には共産党員としての地下活動や国家権力による逮捕も体験し、アカデミズムにこもる研究者とは全く異なる経歴をお持ちである。
そのような体験を背景とする共感力は、歴史家に必要な基本的能力ではなかろうか。
戦後歴史学を牽引したマルクス主義歴史学は、マルクスやエンゲルスによって定立された概念や社会の発展法則に日本の現実を当てはめることで、体系的(科学的)な認識に至ろうとした。
マルクス主義歴史学は敗戦までの歴史学を支配した皇国史観を完全に否定し去る論理的優位性を持っていたが、個別具体的な日本の現実から結論を帰納するという面に不十分さがあっただけでなく、歴史を生きた個々の人間の人生の意味を考えさせてくれるものではなかった。
著者の歴史は、そこに焦点を当てたからこそ、心を打つのである。