1946年から1947年にかけて記された、一青年の日記。
自分は青年ではないが、秩父 山里 生活記という農作業日誌のようなものを書き継いでいる。
本書のかなりの部分がやはり農作業日誌なのだが、ここに淡々と綴られている百姓仕事の厳しさに、読んでいて胸がふさがる思いを禁じえない。
耕うん作業はすべてマンノウか唐鍬で行っておられたらしい。
肥料は堆肥と下肥だが、それらを運ぶには堆肥籠と天秤棒が使われ、荷車が入らなければ人の背か肩で運ぶしかない。
除草はもちろん全て人力である。
これが秩父山里の平均的な暮らしの実相なのだろう。
現在住んでいる地域の諸先輩も、櫛の歯が欠けるように旅立たれているが、おおむねこのような暮らしをしてこられた方々である。
橋本家の経済関係は、日記を見るだけではよくわからない。
例えば、甘藷苗を数千本植えられている。これは、自家消費用ではあるまい。
供出の記事があるから、一部は供出させられたものだろう。
残余の甘藷は販売することができたのだろうか。
小鹿野町長留地区で、戦時中から戦後にかけて供出の圧力が強かったという話を聞いたが、収穫の殆どが供出対象だったのだろうか。
それにしても、橋本家だけでとてつもない量の甘藷が収穫されたはずである。
トマト苗を140本植えたとか、南瓜類を120本植えたとか、馬鈴薯を一俵とか25貫植えたなどとある。
これらの収穫も自家では消費しきれないし、米麦・雑穀は十分でないので、販売したのだろうと推察される。
燃料用・椎茸用その他に要する樹木の伐採も、マサカリや鋸等で行われている。
搬出はもちろん人力である。
信じられないほどの重労働である。
このような暮らしの中で、青年たちは新生日本に希望を託していた。
それが山村の戦後なのだった。