著者の2000年代を中心としたエッセイ集。
1960年代から1970年代にかけての著者の情熱的な論文・著作に親しんできた者にとっては、あまり重くない感じの随筆や講演が集められている。
個人的に関心の深いテーマである自由民権運動にふれた文章がやはり興味深い。
自由民権運動が、地域における草の根の学習運動でもあったことを明らかにしたのは、著者を指導者とする若い研究者たちだった。
江戸時代にも、民衆の学びは存在した。
学ぶことにより、各自の人格形成が方向づけられる。
しかし江戸時代に許されていたのは、体制の思想的な枠内での思索に限られた。
例えば国学的な考え方は、幕藩制支配の枠を越え出る可能性を含んでいたが、それを公然と表明することは認められず、密かにではあれ、幕藩制秩序を否定するような思想を表明しようとしたのは、武士階級のごく一部にすぎなかった。
明治維新後、思想を限定していた枠がいったん取り払われ、訳書や啓蒙書を通して人権思想が地域の民衆に開放された。
学習運動は、政治運動としての自由民権運動と必ずしも連動していたわけではなく、地域民衆が自己のアイデンティティを模索する思想的な営みとして、広がった。
著者は、五日市におけるそれについて、詳しく説明しつつ、これが五日市に突出して起きたものでなく、ある程度普遍的に展開されたという展望を示されている。
自由民権家が「自由がなければ生きている甲斐がない」というようなことをしばしば述べている。
これは、アイデンティティを自己決定できなければ、人として生きているとは言えないという意味だろう。
幕末の国学は、政治思想として突出するものがあったが、個のアイデンティティから人間のあり方を省察するという発想は少なかったのではないか。
国学のバックボーンにあるのは大義名分論であるが、それはむしろ個を「国体」などに埋没させる発想であろう。
自由民権運動の時代における人間論の深みへ到達するにはやはり、明治という時代である必要があったのではないか。
滔々たる民衆的学びのなかで、民衆的な政治意識が形成され、政治的実践につながっていったのが、自由民権運動だったと言えないだろうか。