自由民権運動の歴史像は、自分が歴史ごころつくころには、『自由民権』に典型的に論じられているような形で、ほぼ定説化していた。
それが大きく変化したのは、1980年代前半に開催された「自由民権百年」の研究・顕彰運動前後だった。
ここでは、地域における民権運動が掘り起こされ、自由民権運動のもっていた具体相や可能性が明らかになった。
この時代の民権運動研究は未知の可能性を秘めた印象があって、魅力的だった。
民権運動期に民衆は、政治運動にとどまらず、文化・産業などさまざまな分野でつながり合い、研鑽し合い、学び合った。
この時代は、「日本」の民衆が、「個」として自覚し、「個」として充実した人生を主張するようになっり、民衆のそのような自立の動きを背景として、のちの大日本帝国と異なる国家のあり方が模索された時代だったと、自分は受け止めていた。
しかしその後、自由民権運動の概念が国会開設運動や憲法制定運動など、きわめて教義の政治運動に限定されるようになり、自由民権運動の魅力は半減したと思う。
自由民権運動を研究しようという大学生が少なくなったということを仄聞したのは、1990年代に入ったころだっだろうか。
その後、一定の年月が経過したが、状況は変わっていないように見える。
教科書記述はおおむね「定説」に従うようになり、激化事件はせいぜい事件名を羅列される程度になった。
本書は、タイトルにあるように、自由民権運動の再発見を意図した論文集である。
収録された9本の論文の中で、金井隆典氏の「自由民権と義民」と高島千代氏の「激化期「自由党」試論」が興味深かった。
金井論文は、自由民権運動期に江戸時代の義民がクローズアップされた意味について考察している。
松沢求策は、言論弾圧に対し実力を行使することもそれを計画することもなかったが、言論による運動が政府により一方的に退けられたときの実力行使を否定していない。
松沢の論理を実践したのが、加波山事件だったのであり、鯉沼九八郎も義民顕彰の活動を行っていたという。
高島論文は、1884年に西上州で負債問題や学校費・徴兵制・租税など、地域住民の生活に関わる諸問題に取り組もうとする「譌自由党」とは何だったのかについての仮説を提示している。
自由党が、地域民衆の暮らしに関わる具体的な課題について取り組む方針を、党全体として決定したことはなく、むしろそのような取り組みを行う人々に対し「譌自由党」と呼んで否定した。
しかし、党中央の意向にかかわらず、群馬県の自由党員のなかに、生活課題に取り組むことにより党の組織を建設しようとする動きが存在した。
秩父の自由党も、同様だった。
問題は、自由党と「譌自由党」の関係である。
このことについて明確に述べている史料は落合寅市の「経歴」だが、それを裏付ける別史料が存在しないことが、寅市の記述の正当性が十全に論証できない原因でもある。
高島論文はあくまでも仮説であるが、「譌自由党」もまた自由党だったことを論証する一助となる貴重なな論考だと感じた。