板垣退助の評伝。
自由党解党後の板垣の動向について、隈板内閣で入閣した以外には知らなかったのだが、大正期に死去するまで政治・社会運動を続けたことなどが、淡々とわかりやすく書かれている。
幕末には、倒幕派の上士として画策しており、藩主と立場を異にしていたため、役儀取り上げを何度か経験したが、板垣が完全に失脚することはなかった。
その言説に不穏な点があったにせよ、性根のよさを藩主が理解していたからだろう。
戊辰戦争では官軍の参謀として頭角をあらわし、会津攻めを指揮する。
会津における官軍はすこぶる評判が悪いが、板垣に関する悪評は聞かない。
征韓論から西南戦争にかけての時期には、反薩長閥を基調に動く。
板垣は民撰議院設立建白以来、自由民権運動の指導者だったかのような印象があるが、挙兵・内戦による権力奪取を全く考えていなかったわけではなかった。
板垣が自由民権派のシンボルとして運動を指導するのは、西郷による挙兵が失敗に終わったあとからだった。
本書を読んでもわからなかったのは、板垣の自由民権思想が、彼のどのような学習なり体験から形作られたのかという点だった。
自由民権運動の歴史を学べば、1882年の彼の洋行が自由民権運動を分裂・混迷化させたことは疑いない。
歴史的に見れば板垣は、民権運動壊滅の原因を作ってしまったと言えるのだが、星亨ら自由党幹部はあくまで板垣を立てようとした。
それは板垣の人徳ともいえようが、自由民権運動が広く国民的な基盤を持ち得ていなかったことをあらわしてもいよう。
自由党解党後も板垣は、民権派・民党の中心人物として活動を続ける。
民撰議院設立建白以来の経歴が、いわばカリスマ的な存在に彼を押し上げたのだろう。
政治的運動の中心に居続けたことにより、板垣の政治的思想というべきものが確立してきた。
彼は、天賦人権論より、イギリス流の一君万民論に立ち、天皇家を限りなく尊崇しつつ、国民の権利や福祉・国家主権にも目配りできる政体をめざしていたように見える。
秩父事件の落合寅市なども、おおむねその流れの中にあった。
自由民権運動と板垣の関係について考えるとき、板垣の不徹底さや未熟さが民権運動を混迷させたという評価は、酷だと思う。
それより、板垣・星・大井憲太郎らを乗り越えることができるような思想家・指導者を生み出し得なかった、運動の限界に思いを致すべきなのではないかと思う。