再読。
武相困民党の闘いに対し、多摩地域の自由党員たちがどのように関わったかを分析し、困民党と自由党が手を結ぶ局面は全くなく、雁行状態だったことを明らかにした、記念碑的な論文である。
武相の自由党員の多くは富裕な階層に属していた。
一部は金融業者で、債主の立場にある人もいた。
しかし、それが原因で自由党と困民党が雁行関係にあったのだと結論づけるのは、早計に過ぎる。
村内金融的な貸借であれば、裁判から破産処理という近代法に則った債務処理に進まない場合も多々あったはずだ。
秩父の加藤織平や犬木寿作は債主の立場だったが、困民党の幹部に就任している。
秩父で可能だったことがなぜ、武相では実現しなかったのか。
秩父事件研究の最大のテーマは、ここである。
著者も、その点の解明に徹底して切り込もうとされている。
著者は、「これら富裕層の意識構造がまことに複雑、多元的で、決して単一の価値原理で割り切ることができない」と述べられている。
キーを握るのはやはり、自由党だと思う。
武相の自由党員が、地域の現実に全く無関心だったわけではない。
地租軽減運動を試みる人々もいた。
石坂公歴らは、債主と困民党の間に立って、仲裁を試みた。
しかし、彼らが行ったのは、そこまでだった。
著者はその原因を、「石坂たち黎明期の指導者たちが、中央集中的な高度の政治イデオロギー(いわゆる民権派の大局的見地)に強くつき動かされて、大義の前には私利を滅する式の、足元の利害抗争を軽く見る気風が強かった」ことに求められている。
旦那自由党と自由困民党の路線の相違が何を原因とするのか、この論文で解明されたとは言えない。
だいたい、この論文を著者は60年安保闘争の時代に執筆されたという。
著者がここで提起された問題を、その後の研究が解明できずにここまで来てしまったことこそが、大いに問題ではないかと思う。