40年ほど前に読んだ本を再読。
加波山事件の概要をシンパシーを持って描いている。
国会が明治23年を期して開設されることがすでに決まる一方で、どのような内容の憲法が作られるかは全くのブラックボックスだった。
本来であれば、国民的な課題に取り組みつつ組織建設を図るべきだったのだろうが、自由党も立憲改進党も、松方デフレ下の民衆の現実に寄り添う活動には全く無関心で、抑圧を強める政府にいかに対抗するかという点と、民権政党同士の偽党撲滅闘争にほぼすべての組織的リソースを投入していた。
多摩地方では、負債に苦しむ人々によって困民党が組織され、彼らによるデモンストレーションが展開されていたが、これに対し、三多摩の自由党は何ら組織的運動を行わなかった。
民権派にとって、民権運動は政治思想・政治理論を戦わせる運動であった。
民衆の経済要求など、政治思想より次元が低く、民権運動が正面から取り組むほどの問題とは考えられていなかった。
秩父事件の際に坂本村福島敬三が述べたのは、まさにそのような立場だった。
加波山事件に参加した若き自由党員たちは、天賦人権論に立脚した権利意識と強い反政府意識を持ち、革命の理想に燃える人々だった。
彼らは、自由や幸福を実現できる政府を実現するために生命をかけることをいとわない一方、民衆の現実には目が向いていなかった。
これが自由民権運動の致命的な欠点だった。
静岡事件に関係した人々は、秩父事件の報に接して広域蜂起を模索したが、秩父困民党のめざしたものを共有しようとしたわけではなく、民衆が引き起こす動乱状態に乗じて自分たちの革命を実行しようとしたのだった。
彼らにとって民衆の運動は、治安を混乱させるという点で利用価値があるに過ぎず、民衆的要求実現のために生命をとするなどという発想はまったくなかった。
加波山における旗揚げは、なんの民衆的組織活動もなしに行われたのだから、それに呼応する民衆的な動きが皆無だったのは当然だった。
加波山事件についてはその後、研究が深化している。
明治17年の自由党について、上記のように単純化するのは不適切かもしれない。
同年3月の春季大会の位置づけなどを、全国的な動きの中で、再検討する必要があろう。