全共闘運動を指導した著者が1960年代を振り返っている。
この運動のコアに存在した思想がどのようなものかが語られていて、興味深い。
著者の中には、闘ったものがもち得る矜持と確信がある。
著者と立場は異にするが、自分にもちっぽけな矜持めいたものがあって、ときにそれは情念のように噴出することがある。
全共闘運動はやはり、ひとつの思想運動として記憶されなければならない。
この時代の運動は、思想運動と組織活動が混然としていた。
例えば共産党系の運動は、指導者や教祖筋の著作を学習することにより思想化し、思想に基づく組織建設を至上課題とした。
深く考えて現実を切り分け、主体として行動することに価値があると皆が考えていた。
現状認識や行動規範を完全に一致させるなど不可能だから、違いが発生するのは当然なのだが、徹底した議論の行き着く先は、認識を異にするものは敵だという分裂論だった。
闘う相手は戦線内部にあると考えられ、批判は最終的に内ゲバへ収斂した。
著者による「民青系諸君」への眼差しには、そのような名残りがありありと残っていて面白い。
現代の運動は、この時代のそれとはずいぶん異なってきており、相違点を認めつつ一致点に基づく共同をいかに追求するかに力点がある。
運動としては、こちらのほうがはるかに成熟していると思うが、当時はこれでやむをえなかったのかもしれない。
後半は主として、著者による科学論である。
1960年当時の科学論が粗雑で楽観的に過ぎていたことは、事実である。
共産党系の運動にはそれが特に顕著だったように思う。
全共闘の思想は、激しい自己否定を本質としているように思う。
現代においては、科学者・技術者であるだけで、体制の維持にコミットしているのだから科学・技術は否定されるべきであり、そのことは、行動綱領としての「東大解体」に結果したと、著者は述べられている。
このような自己否定は、一見ラジカルであるように見えて、最後のところで思考を停止しているのではないか。
体制に奉仕しない科学・技術が存在し得ないことを、著者は検討さえされていないように見える。