旧下吉田村街歩き
【年月日】 |
2023年8月22日 |
【同行者】 |
単独 |
【タイム】 |
吉田総合支所(10:44)−井上伝蔵墓(10:53)−万松寺(11:06)
−貴布祢神社(11:16)−金剛院(11:46)−関(12:07)
−下吉田戸長役場跡(12:33)−椋神社(13:09)−窪田巡査殉職碑(13:20)
−清泉寺(13:33)−龍勢会館(13:45)
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【地形図】 |
長又 皆野 ルート地図 (マウスホイールで拡大・縮小可)
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秩父郡下吉田村は現在、秩父市下吉田になっているが、江戸時代は秩父でも有数の大村で、三斎市も開かれていた。
明治17年に起きた対国家武装蜂起である秩父事件において、集合地点となった村でもある。
井上伝蔵は、秩父困民党軍の会計長で、欠席裁判において死刑判決を受けたが、偽名を使って大正7年まで生きた。
伝蔵の葬儀は万松寺で行われた。
貴布祢神社の神官だった田中千弥は、秩父困民党蜂起に強く反対していたが、事件に関する詳細な記録を残した。
高野作太郎は、取り調べて強く否定したにも関わらず、拷問を受けて放火の罪を得て、有期徒刑12年を宣告された。
彼は北海道釧路集治監に送られ、アトサヌプリで硫黄採掘の強制労働を強いられ、ここで多くの在獄者とともに獄死した。
死者はここで埋められたが、改葬の際に掘り起こすと、足には鎖や縄がついたままだったという。
墓石代わりの地蔵がふるさとの古刹、金剛院に建てられた。
総決起の場所となったのが椋神社である。ここも古い神社で、平安時代からこの地にある。
ここの境内で、困民党軍の軍律や役割が発表された。
困民党の動きを受けて松山警察署の警官隊が、上日野沢村から阿熊に入った。
ここで困民党軍の銃撃を受けて下吉田村方面へ敗走する途中、窪田鷹男巡査が逃げ遅れて殺害された。
清泉寺前で、警官隊と困民党軍の白兵戦となった。
柏木太郎吉と年代道蔵がここで斬られて亡くなり、青木与市巡査が困民党軍の捕虜となった。
清泉寺下の墓地には、困民党軍の銃砲隊長・新井駒吉と阿熊村・彦久保次郎吉の墓が並んで建てられている。
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