秩父のイワナは、いわゆるニッコウイワナです。

 しかし、私ども、秩父の釣り人には、他の川のニッコウイワナとはひと目で区別できるほど、特徴的です。
 そして、なによりも、秩父の川に、秩父のイワナが泳いでいることは、私どもの誇りなのです。

 秩父の地に、人間の暮らしのあとが確認されるのが、数万年以前。

 関東地方のイワナが陸封されたのは、第4間氷期以降のことですから、秩父のイワナは、秩父の大地の岩や土を削りこんだ水の中で、生きてきたのです。

 秩父の民の歴史は、風化したばかりの石ころだらけの急斜面で悪戦苦闘しつつ、秩父にふさわしい暮らし方を模索してきた歴史でした。
 農業を営む上での有利さが、なに一つないこの地に、なにゆえ住みついたのかはともかく、貧しい中にも楽しみを創造するしたたかさ・楽天性を、この地の民はもっていました。

 斜面に可能な農業として、養蚕・製糸・絹織りを開拓し、絹の大市を盛り上げるために、江戸時代に創造されたのが、秩父妙見の冬の例大祭、すなわち「秩父夜祭り」です。
 たび重なる幕府の華美禁止令にもめげずに、営々として築き上げられてきたこの祭礼と付け祭り(一般的にはこちらを「夜祭り」と呼んでいる)のクライマックスは、6基の屋台と笠鉾が、市内団子坂を引き上げられる瞬間です。

 このときの屋台囃子(太鼓)の音を聞いていると、思わず、涙がこぼれます。
 これこそ、急流を砕け落ちる、秩父の渓音、秩父の民の心臓と共鳴して心を揺さぶる、あの音と同じだからです。

 われわれは、秩父の歴史や風土の中で暮らしています。
 それが、われわれのアイデンティティであります。
 秩父イワナの存在もまた、われわれのアイデンティティなのです。

 時代は、グローバル化・情報化・高速化の方向にばく進しつつあるようです。
 山村もしだいに開けてきました。
 しかし、そのことによって失われたものも、大きいのです。

 1998年に開通した雁坂トンネルによって、大滝村の観光開発には、拍車がかけられることでしょう。
 それでなくても、南関東から、釣り人が押し寄せてきています。

 従来から存在した二瀬ダムに加えて、1998年には浦山ダムと合角ダムが完成し、1999年には、秩父最大の滝沢ダムの本体工事が、いよいよ着工されました。
 巨岩と緑の大淵を重ねて屈曲し、春には新緑、秋には錦秋に飾られた美しい渓流が、よどんだ水とコンクリートの下に沈められようとしています。
 とても無念です。

 それ以上に無念なのは、ダム建設やリゾート施設建設によって、この1万年のあいだ、営々として築き上げられてきた秩父の民の暮らし方が、いとも簡単に投げ捨てられようとしていることです。
 養蚕は放棄せられ、抜かれた桑の木が畑の隅に積み上げられています。
 普通に耕したのでは土が谷底に落ちてしまうため、いつも、土を山側に持ち上げるようにして耕す(これを「逆さ掘り」という)ことによって、この数百年間維持されてきた山畑に、雑草が生い茂っています。

 小・中・高校の統廃合も進んでいます。
 山村では、若者によってふるさとが支えられるどころか、音をたてて村が崩壊しつつあります。
 都会の人と同じレベルの暮らしをするためには、それでも、仕方がないのです。

 人が暮らし、人に見つめられることによって維持されてきた、イワナ・ヤマメの棲む渓流はいまや、山村住民にとって、切り売りの対象となり果てているのでしょうか。
 この斜面で、貧しくとも誇りを持って生きてきた先人の意気は、死んでしまったのでしょうか。

 私は、秩父のイワナにこだわりづけたいと思います。
 秩父のイワナにこだわるのは、山村に生きる、私どもの生き方へのこだわりです。

 都会暮らしとは異なる不便さがあっても、この斜面にりっぱな人生を築いているのだという誇りと、浮き立つようなオレンジ色の斑点を持つイワナと、どちらが欠けても、私どもの人生はつまらないのです。

 秩父イワナがいなくなったら、おしまいです。
 おそらくは、どの地方のイワナだって、そういう思いで釣り続けている釣り人がおられることと思います。
 このページは、秩父のためのページのつもりです。