シャラ花の香り

ナメの川床が続く

 明け方の駐車スペースにはすでに、先行者の自動車が数台。
 今回は、今年3度目の源流泊釣行なので、そんなに急がなくてもいい。

 雨予報でもあったのだが、ありがたいことに、天気はまずまず。
 これで、虫が飛んでくれれば、言うことなしだ。

 背中の荷物は、相変わらず、あきれかえるほどの重さだ。
 ここ数年、源流域に生野菜を持っていくという、おかしな癖がついたため、ロープ・ハーネスや撮影機材なども入れると、ザックの大きさがえらいことになる。

 あと何年、こんな釣りができるかわからないが、おれにとっての時間は、今しかないと思ってるし、今を濃密に過ごすことが、人生の意味ではないかとも思ってるから、同行してくれる人がいるのは、この上なくありがたいことと思う。

 小鳥たちのにぎやかな季節は峠を越えたようだが、アカハラ、エゾムシクイ、アオバト、ヤマガラ、シジュウカラなどのさえずりが聞こえた。

 初夏の源流釣りの楽しみの一つは、落花の鑑賞。
 重荷にあえぎながら、急坂を歩くとき、視線はほとんど下ばかり。
 周囲の気配や樹相を観察するほどの余裕は、なかなか出てこない。

 下ばかり見ていても見ることができるのが、地面に落ちた花殻たちだ。
 マタタビ、シャラ、オオバアサガラ、ネジキ、チチブベニドウダン、アワブキ(?)などが、あちこちに落ちていて、目を楽しませてくれる。

 とくにシャラの花は、今が盛りとみえ、落花のあるあたり一帯に、けだるくも甘い香りを、漂わせていた。

 荷物は重いのだが、歩きのペースはずいぶん速く、源流に建つ小屋まで、4時間ほどだった。
 先客は、ひどく疲労して行動不能になった二人組だけだったので、われわれは荷物をほどいたのち、ゴルジュの多い方の支流に入った。

 ここは、秩父随一の美渓。
 岩石は、秩父古生層で、黒い岩に、白い縞模様が入った蛇灰石だ。
 目立った崩壊個所は一つもなく、冷や冷やものの高巻きの合間に、ちょっと竿を振るという感じだ。

 釣り人はかなり入っているようすで、いつぞや行った沢にくらべると、魚影はそれほど多くなく、おれのヘボなピンクのカディスに飛びついてくれるイワナは、あまりいなかった。
 毛鉤の種類といい、振り込みといい、流し方といい、まだまだ未熟だなぁと痛感させられた。

 最初のゴルジュは、右から大高巻き。
 その後しばしは、ナメの岩盤にさえ気をつければ、原生林の中の気分のよい遡行。

 3段の滝のあたりも、へつりと高巻きの連続。
 竿を出す余裕はなく、美渓に酔うばかり。

 毛鉤への集中力がとぎれて、惰性で竿を振っていると、思わぬ早合わせをくれて、苦笑いしたりする。
 大きな淵では、ほとんど反応がなく、おれのレベルでは、ちょっとお手上げ。
 ルアーが使えれば、何とかなるかもしれない。

 一つのポイントをちょっと叩いては次に進むので、遡行スピードがはなはだ速く、ほとんど沢登りと変わらないのが、テンカラだと思う。

 10メートルほどのいい滝でKさんがいいイワナを釣っているあいだに、おれはまたまた大高巻き。
 ここの下降は、ちょっとやばいが、一昨年来たとき、瀬音の森のKさんたちと、雷雨の中、めがねが曇って下もよく見えない中、夢中で下ったのを思い出す。
 慎重にここを下ると、ゴルジュの中で、こんどは左の岩場に取りつかねばならない。

 渓がやや開けて、美しい、シダの密生帯。
 ここまで来て、すっかりバテたのを自覚。
 時間もいい時間だったので、竿をたたんで遡行に専念し、魚止めの上から、登山道を戻った。

 道は、沢から遠く離れ、山腹を縫って続いている。
 尾根に近いところには、ヒノキ。
 斜面には、カツラやウダイカンバなど。
 低木層のメインは、アズマシャクナゲで、シャクナゲのないところには、スズタケが密生している。

 本流にくらべると少ない水量を、古生層の、みごとな岩盤の上に流下させ、大淵をちりばめつつ、美しくまとまった渓相を作り出しているのが、この沢なのだった。

 小屋に帰着したのは、日暮れ直前。
 手早く粗飯の支度をしながら、小さな焚き火も準備。
 天気がよかったので、焚き付けなしでも、可愛い火が燃せた。
 焚き火は、小さいほど、美しい。
 日が暮れると、この日の疲れが一気に出て、シュラフに入った瞬間、眠ってしまった。

 翌日は、左の沢の最源流だけに行くことになっていたので、ゆっくり目覚めた。
 食事をすませ、身支度を整えて、さっそく最源流への急登に取りつく。
 ここはいったん、尾根の頂上にまで登ってから、沢身に降りるのだ。

 一帯は、完全に原生林。
 尾根筋には、はじめツガが多いが、やがてヒノキが目立つようになる。
 もちろん、天然ヒノキで、巨木というほどではないが、風格のある大木が林立するさまはやはり、神々の居ますところという感じがする。

 数本のヒメコマツの巨木を見て過ぎると、山腹のトラバース。
 ここからがこのルートの見せ場で、サワグルミ、ウダイカンバ、オノオレカンバの巨木や、とても格好のよいシオジの大木などが、次々にあらわれる。

 数十メートルはあるスケールの大きい滝近くまで来ると、アズマシャクナゲやアセビの下生えに、岩を割って根を張るヒノキが屹立して、奥秩父らしい雰囲気を醸し出す。

 源流入口まで約1時間の登り。
 毛鉤を流すと、さっそくイワナが出るが、あまりに幼稚な顔をしているので、おもしろくない。
 小さいとはいえ、あまりうれしくない体色をしたイワナだった。

 大きな淵や滝がなく、やや冗長なのが、この付近の特徴なのだが、ちょっと飽きてしまったので、しばしビデオ撮影に専念。
 おれの仲間たちは、この沢を在来イワナの保護区にしようとがんばっているのだ。

 しばらく行くと、ダケカンバ・ツガとサワラの混生林。
 地形が比較的フラットなので、地面にシダが密生して、とても風情がよい。
 帰りにここで、Kさんが、天然ヒノキの巨木を見つけた。

 サワラ林を過ぎると、小さなゴルジュ。
 突き当たりは、苔むした5メートルほどの滝。
 これを登ると、倒木帯で、すぐに巻き道の見あたらない、2段のナメ滝。

 ここで時刻は1時過ぎ。
 明るいうちに自動車をとめたところまで戻るには、もう限界だった。
 ふつうなら、12時には帰途につくべきなのだが、KさんとかJさんあたりと同行すると、どんな重荷でも空身同様のスピードで歩くので、時間に余裕があるかのような錯覚にとらわれる。

 源流入口まで戻って小休止し、下り始めたのは2時。
 3時に小屋。6時過ぎには、自動車のところで四方山話ができたのだから、ずいぶん速く歩いたものだ。

 登山道ではあいかわらず、シャラの花が幻惑的な香りを放っていた。