レゾン・デートル

ガレ場に芽ばえたフサザクラ

ここまで育つのに何年かかったか

 しらじらと夜が明け、対岸の斜面が見えてきたが、山肌にはガスがまとわりつくように、よどんでいた。
 トラツグミ、ヨタカ、アカハラ、ホトトギスなど、朝の早い鳥たちが、個性的なさえずりを響かせていた。

 きょうは、初対面のA先生と山道を下る。
 この渓を釣るのは、4年ぶりだ。

 時間も早いし、下流部の魚影の薄さは承知しているので、しばらくは竿を出さずに、遡行に専念。
 ちょうどよいウォーミングアップだ。

 渓相は、すこぶるよいので、A先生は、蒼い淵とおれを見くらべながら、「まだ竿を出さないのですか?」とおっしゃるが、ここは、心を鬼にして、今しばらく我慢していただく。

 小休止を含め遡行約2時間で、右岸の大崩壊を見る。
 まともな釣り場と言えるのは、このあたりからなのだ。

 この渓はかつて、大々的に伐採され、その後スギが、広範囲に植えられている。
 植栽当初の手入れはしっかりしていたと見えて、まあまあのスギ林が育っている。
 そろそろ伐期と思えるが、ここから材を搬出するのでは、とても採算が合いそうにないから、伐れないだろう。

 えさ釣りのA先生にはときおりイワナがかかるが、おれのカディスには、まったく反応なし。
 日が高く昇っているはずの時間になっても、ガスのために、明け方のように薄暗く、まったく虫が飛んでいないのだから、とても勝負にはならない。

 ことさらゆっくり釣って、ようやく小さな支流の出合。
 かろうじて水が流れている程度の細流だが、極小のイワナが生息する。
 ここのイワナのプロフィールを撮影するのが、本日の釣りの目的のひとつだった。

 A先生におつきあいいただき、支流を叩く。
 ピンクのカディスでは話にならないから、ここは黒毛鉤のタタキ釣り。
 驚いたことに、虫がまったく飛んでいなくても、これだと立派な釣りになる。
 ちょっとしたお盆ほどの溜まりで毛鉤を流すと、どれどれといった感じでイワナが出てきた。

 少し沈めるから毛鉤がよく見えず、従ってドラグがかかりまくっているはず。
 流し方さえじょうずなら、この天気でも釣りになることを発見したのも、収穫だった。

 その先しばらく行くと、杣道が出合う。
 といっても、ほとんど廃道に近いので、一般の釣り人にはわかるまい。

 A先生が、もう十分堪能いたしましたとおっしゃったので、ここで竿をたたみ、杣道を戻った。

 杣道の途中に、植林の際に使われたとおぼしき宿舎あとがある。
 完全に倒壊しており、割れた一升瓶が散乱していて、荒涼たる風情。

 細流は、この宿舎の前から流れ落ちている。
 さっき釣った小さなイワナは、作業員の人々が、伐採作業に明け暮れる日々の無寥を慰めるために、放したものの子孫にちがいなかろう。

 この場で人間のなしたことに、なんの意味があったのだろう。
 渓に放置され、腐ったワイヤ。
 山と積まれた一升瓶のかけら。
 倒壊して朽ちた家屋。
 意味を持って存在し続けているのは、復活しつつある森と、細流に生きつづけるイワナだけだ。

 4年前に大掃除をしたはずだが、まだ渓のゴミが目につく。
 大きめのザックを持ってきたのに、これを拾って歩いたら、すぐにザックいっぱいになった。

 森も渓も、静かに生き返ろうとしている。
 その手助けとして、おれたちに、何ができるだろう。

 その答えが出せない人間に、存在理由は、あるのだろうか。