いつか行ってみたいと思いつつ、悪渓との評判におそれをなし、アタックできないでいた渓に、初めて出かけることができた。
渓通しで、途中まで行ったことが、一度ある。
8年前のメモランダムには、へつりと高巻きの連続で苦労したわけには、魚は釣れず、急所縮みまで行って帰ったとある。
この渓の源流部へは、急所縮みなる悪場を越えねばならず、そこを越えてもなお、きびしい遡行を強いられるという。
尾根越えルートがあるにはあるが、道形はほとんどないに等しく、急傾斜のガレ場の横断やヤブこぎの連続を余儀なくされる。
このルートを3回にわたって踏査し、下準備としてさらに一度、実踏した。
時期は梅雨入り直前、万全を期して臨んだ、今回の釣行だった。
明け方の駐車スペースで、今回のメンバーが顔合わせ。
釣り人と沢登りグループとの合同パーティだ。
荒川水系渓流保存会のKさん、Jさんとおれ。沢登りグループのCさんと、若手のF君とM君。地元の釣り人のSさん。瀬音の森のYさん。合計8人のパーティだ。
共同装備と食糧を分担して、ゆるゆると出発した。
入渓した朝の渓は、水量も少な目。
遡行条件は、まったく問題なかった。
ときおり背後から射し込む光が、自分の影を、キラキラ光る流れに落とす。
小鳥たちの声も、にぎやかだった。
この日は、テン場に着けばよいだけだから、竿を振りながら、のんびり遡行。
どういうわけか、先週以来、おれの毛鉤に、さかんにイワナが跳びついてくれる。
なんだか、少しテンカラがじょうずになったような気がする。
たぶん気のせいだとは思うが。
しばらく行って、最初の悪場。
このあたり、8年前は、右に左に、巻きの連続だったような記憶があるが、ここは右岸の大高巻き。
ほっとするのもつかの間で、すぐに、巻き道のない小滝。
右岸をへつるか、左岸の巨岩をずり登るか。
どうするかと思ったら、水線に足場があり、Cさんのお助けロープにすがって通過。
このルート取りに、さすが沢屋さんだと感心した。
急所縮みの悪場も、右岸から高く巻く。
ここは、8年前に、低く巻こうとして、懸垂下降しかないところに追い込まれた。
気の抜けない巻きだが、思ったほどの恐怖感もなく、ふたたび沢身に立つことができた。
ここまで来れば、今日の行程は終わったも同然。
テン場はすぐだった。
みんなで焚き木を集めたのち、食事当番のおれは、晩ご飯の準備。
若者2人は、河原で昼寝。ほかのみんなは、どこかに釣りに行ってしまった。
みんなが夕食用のイワナを釣ってこなかったら困るので、テン場の前で竿を振ったら、またまたイワナが跳びついた。
やっぱり、腕がよくなったんだろうか。
酒はたんまりあったんだが、みるみるうちに、減っていった。
最後に、骨酒を酌み交わして、初日の宴は終了。
テントにまだ余裕があるのに、沢登りのみなさんは、野天でシュラフにくるまっていた。
二日目は、今回の遡行のメインの沢に出かけた。
想像していたとおり、ここは、黒紫色のすべりやすい岩場をまとった、高巻き困難な滝の連続で、これだけの仲間とでなければ、とても巻いてみようなどと思わなかっただろう。
しかし、渓の美しさは、奥秩父らしくすばらしいもので、いくら見ても見飽きぬ光景だった。
M君とF君が、核心部の途中で、予定通りUターン。
6人で、最源流に向かった。
えさ釣りの手練れではあるが、テンカラには初心者のSさんにも、いいイワナがかかった。
高巻きの合間に振る毛鉤に、魚もきげんよく反応してくれる。
お昼すぎてようやく、奥の二股。
同水量だが、支流筋にあたる右の沢には魚影なし。
そろそろ帰途につかねばならないが、魚止めも近いので、左をもう少し遡ってみた。
水量が激減し、とうとうと流れていたこの川も、軽く一またぎできるほどに細くなった。
川床はナメの一枚岩となり、魚の反応が、遠くなる。
魚信が絶えてから最初の滝で、竿を仕舞って、帰ることにした。
懸垂下降を交えたきびしい巻きもあるので、テン場近くに着くまで、気が抜けなかった。
この日も、天気がよかったので、小さくてよい焚き火ができた。
飲みながら仰ぎ見ると、猫の額ほどの狭い空に、たくさんの星がまたたいていた。
3日目は、テン場近くの支流に行くことになった。
この日のうちに下山しなければならないので、竿を振りながらも、遡行ペースは快調。
朝が早いので、こちちらでは、おれの毛鉤には、イワナの出があまりよくなかったが、小イワナがつごう二つ、ピンクのカディスに出てくれた。
まぁまぁ順調な遡行だったが、魚止めのやや手前で、モチベーションが萎えたため、みなさんに行っていただき、おれはしばらく淵の岸辺でひなたぼっこをしていた。
テン場に戻ると、どういうわけか、気温が急上昇し、あたかも真夏の渓のような風情となった。
カゲロウが、小雪のように乱舞し、生命讃歌を謳っていた。
ここから重荷を背負っての、尾根越えでの下山はさぞ暑かろうと思ったが、3日間、雨がまったく降らなかったなんて、奇跡的な幸運だ。
文句を言うわけにはいかない。
テン場周辺に放置されていたカラのガスボンベなどを回収したら、ザックがとんでもない大きさにふくれ上がった。
重荷によろめきながら、名残惜しい源流をあとに、尾根を登りきると、はるか足元に、急所縮みの悪場が見えていた。