タイガーリリーのイワナ

ハクウンボク

甘い香りが漂う

 この急な踏みあとを登るのは、これで3度目だ。

 渓に行くルートなのだが、踏みあとは判然としない。
 途中から渓には、ぜったいに下降できない。
 尾根は、背丈を没するスズタケの密ヤブで、歩行さえままならない。

 渓通し行くことができないわけではないが、ハーケンをつかんで、ツルツルの 岩場をトラバースするのを始め、難行苦行を強いられる。
 釣りながら行くと、お昼過ぎに、急所縮みと称される悪場に至る。

 だいたい、ここまでの遡行で精魂使い果たしているので、ここを巻く元気など、 もはや残っていないし、これ以上突っ込んだら、明るいうちに渓を抜けることは まず不可能。
 無事に帰れますようにと念じながら、帰途につくのが精一杯なのだ。

 急所縮みの先は、どのような渓なのだろう。
 それを見たくて、この尾根に、去年から何度も、取りついてみた。

 結果は、あまりかんばしくはなかった。
 急傾斜の支尾根は、ゴジラの背のように岩が屹立し、谷側もほぼ垂直の岩場で、 下降点はなし。
 岩場の基部をそろそろとトラバースするしかないのだが、斜面は浮き石だらけ でもろい上、危険なガレ場をいくつも渡らなければならない。

 元同僚のSさん、樹木に詳しいOさんに相談したら、いっしょにルート探索し ましょうという、ありがたいお返事をいただいた。
 それで先週、四苦八苦の末に、めざす渓へのルートを発見したのだった。

 踏みあとがないから、ルートはシカ道を利用。
 別のところでは、悪さをしてくれるので困ったシカなんだが、こうやってシカ 道を使わせていただくこともあるのだから、まぁ、持ちつ持たれつというところ だ。

 きょうは大きな荷物を背負って、また、三人でこの道を登ってきたのだった。

 先週は、白く霞んだような花を咲かせていたアワブキの花は既に終わり、きょ うは、ハクウンボクが満開だった。
 花の形はエゴノキに似ているが、花がかたまってつくので、開花時には、おれ でも見分けられる。
 ハクウンボクの甘い香りがあたりに充満し、けわしい渓行きに向かう気持ちを 和らげてくれた。

 落石や滑落の恐怖と戦いながら、目的の渓に立つまで、5時間弱かかった。
 幕営装備を持ってきていないので、帰途につくまで残された時間は、ほぼ2時間。
 納得のいく釣りをするのには、十分な時間だ。

 天気がよいので、きょうは迷いなく、テンカラオンリー。
 はじめはピンクのカディスだが、すぐにズィーロンをテールに使ったXカディ スに変更。

 結果的にいうと、毛鉤の種類は、どちらでも似たようなものだった。
 釣れるところでは釣れたし、反応のないところではさっぱりだった。
 Oさんはフライだったが、なかなかいいイワナを掛けておられた。

 ところで、おれは、とっても気分がよかった。
 天気が良かったせいもあるが、いま思うと、釣れるイワナがことごとく、いい イワナ(大きいという意味ではない)だったからだ。

 どのイワナも、あざやかなタイガーリリーの着色斑を身体中に散りばめていた。
 白斑は、あくまでも控えめだった。
 首の後ろから背鰭のつけねにかけては、不明瞭な細かい地模様になっていた。

 どのイワナもみんなそうだった。
 おれはとても、幸せだった。
 いっしょに在来イワナ保護の活動をしているOさんも、うれしそうだった。

 これぞ秩父のイワナ !!
 これぞ秩父の渓 !!

 時間のたつのはアッという間だった。
 しばらくの遡行で、高巻き困難な滝。
 いくつかのイワナの顔写真をいただいたので、もう十分。

 よれよれになりながら、車の所に戻ると、もう5時を回っていた。
 からだは疲労困憊状態だった。
 しかし、タイガーリリーの斑点のイワナに会えたので、気持ちは高ぶったまま だった。