藤倉川のほとりで

かまど(下)やカメ(上)

どういう食事をしていたのだろう
 初夏のある日、また、藤倉川を訪れました。
 足の具合がよくないので、釣りはせず。
 合角ダムのバックウォーター付近の遺跡発掘現場を、見学させてもらうのが目的でした。

 突然おじゃましたにもかかわらず、発掘指揮にあたっていたHさんに、いろいろと教えていただくことができました。

 現在掘っているところは3000年前の集落だが、すぐそばに2700年前の家屋あとも出ていること。
 また、合角の近くには10000年近く前の遺跡も出ていること。
 家屋のあとだけでなく、祭祀遺跡も出ているので、ここは、藤倉川〜吉田川上流一帯の中心的集落であったと考えられること。
 生活用具として、石製のオモリが、かなり大量に出土していること。
 このオモリは、なにかの魚を、刺し網のような道具を使って、捕獲するのに使ったものらしいこと。

 なんと、興味深いことでしょう。

 Hさんは、オモリの大きさから推測して、当時、サケが遡っていたのではないかと言われましたが、秩父イワナや秩父ヤマメもすでに陸封されていた時代ですから、サケは遡らなかったのではないかと申し上げました。
 とすると、これらのオモリはヤマメを獲るために使った可能性がもっとも高いことになります。

 現在では、縄文時代における農耕の存在は定説となっていますが、ここ藤倉川のほとりにおいては、とても信じられません。
 なぜなら、傾斜地の多いこの谷では、現在でさえ、農業は楽でないのですから。

 それでは、縄文人たちは、どうして、数千年にわたって、ここに定住し続けたのか。
 採集を基本とする縄文時代の暮らしは、決して、お気楽なものではありません。

 春の山菜や秋の木の実には恵まれていたかもしれませんが、野生動物の肉など、そうそうありつけるものではなかったはず。
 とすると、ヤマメの存在は彼らにとって、死命を決する重要な意味を持っていたのではないか。

 縄文家族が何ごとか語り合いながら、とり囲んでいたであろう、かまどのあとを見つめていると、空想が時空をはるかに越えていきます。

 5月に、ダムに関する講演会に行って来ました。
 そこで、フロアから発言したご老人の、「合角ダムができて、補償もないまま取り残された上流の集落は、まもなく滅亡するでしょう」ということばが、忘れられません。

 遺跡は、藤倉川のせせらぎのすぐそばに、ありました。
 つまり、この10000年ほどの間に、川による浸食は、ほとんど進んでいないのです。
 ということは、縄文人が見た地形は、目の前に展開する光景とさほど違わないということです。

 ダムを造ることによって、地域で人間が生きられないようにする現代人の知恵とは、はたして、どれほどのものなのでしょうか・・・。

 Hさんはじめ、作業にあたっていたみなさんにお礼を言って、現場をあとにしました。