石間川挽歌

キフジと石間川

 石間(いさま)の谷は南北に長い。
 だから、太陽が山の端から顔を出すのはずいぶん遅く、お昼過ぎには日が陰る。
 急な斜面の畑が点在するが、石ころだらけで、ろくなものは作れない。
 入渓点近くの山では、炭焼きの煙がたなびいていた。

 雪害で倒れた杉をかき分け、みすぼらしい流れを前にして、毛針を結ぶ。
 今日は事実上、今年の釣りの始動日なのだ。

 藻の腐ったヌルが流れにゆらめいており、アブラハヤらしき小魚がよどみに群れていた。
 里川らしく、川辺には菜花が満開。
 ヤブカンゾウの群生は、食べ頃をとっくに過ぎている。

 この谷は、秩父困民党の牙城だった村。
 ほとんど全戸が、火縄銃や刀、竹槍などで武装し、日本陸軍(当時は東京・高崎鎮台)との戦争に参加した。
 繁次郎などは、その日のために、女房になぎなたを教え込んだくらいだ。

 川の上には、目を血走らせ、血糊の付いた刀を携えた農民兵士が行き交った往還。
 勝てる見通しがあるから戦うのではない。
 皆が助かるため、義のために起たねばならんのだ・・・。

 アブラハヤに混じって、ちらほらとヤマメらしき魚影が走るが、下手なテンカラに反応してくれるほど、甘くはない。
 ちょっとしたトロ瀬で、小ヤマメのアタックが数度。
 ユスリカが飛んでいるが、22番では見づらいので、16番のパラシュート。
 底でキラキラしているから、毛針に関心はあるのだろうが、ちっとも掛からないから、こっちの頭だけがオーバーヒートする。

 この上が、落合寅市の家。
 困民党の発起人で自由党員。事件ののち、お尋ね者となるが、高知県土佐山村でかくまわれ、のち逮捕。
 ひどい拷問を受けたが、生き抜いて出獄。
 普通選挙が実現したときには、命がけの戦いがようやく実ったと号泣した人だ。

 道路が広くなったところは、ことさら川が荒れているので、竿を振らずにどんどん歩く。
 人家が出てくると、S集落。
 小さな落ち込みで、小ヤマメが二度、三度。
 空振りするたびに、頭上に張り出した木に毛針をとられて、またも熱くなった。

 ここは、家庭訪問で何度も訪れたところ。
 S君宅では、皆が言葉少なだった。
 あのとき、S君本人も、ご両親も、私もつらかった。
 「がんばれ」という言葉が、彼を傷つけることは百も承知だったが、やはり「がんばれ」としか、言えなかった。
 長い長いトンネルを抜けて、この春、彼も無事に卒業していった。

 早春の山路の定番、キフジやフサザクラの花が盛んに咲いていて、毛針が枝に引っかかると、煙のような花粉が飛ぶ。
 小さな堰堤があって、エサ竿がほしくなるような場所は、端から端まで丹念に叩いてみたが、反応なし。

 堰堤を巻くと、加藤織平の墓。
 秩父困民党副総理。事件後逮捕され、死刑。
 義のために命を捧げたリーダーは、死後、政府によって「暴徒」と呼ばれた。
 生還した落合寅市は、同志への中傷が許せなかった。
 彼は、同志の汚名をすすぐため、往還を見下ろす位置に織平の墓を建立し、台座に「志士」と彫り込んだ。
 寅市は終生、自分たちのことを「立憲志士」と呼んだのだった。

 谷あいに、フキノトウがたくさん惚けている。
 なぜとって食わないのだろうか。
 菜花を摘んだあとはそこここにあるのだけれど。

 義賊鼠小僧次郎吉の碑に行くところを過ぎると、U集落。
 鉄板を渡した橋をくぐると、諏訪神社の祭礼と見えて、大幟がはためき、神楽を奏する笛と太鼓の音が聞こえた。
 私の集落にも、奏者はいるのに、神楽は途絶えてしまった。

 平板な中に、ときおりよいポイントがある。
 魚影もそこそこ、ライズもまあまああるのに、毛針だけは食わない。
 完全に見透かされている感じ。

 石間小学校の下を通ると、通行不能のゴルジュ。
 釣果なしは悔しいが、本日はここまでとした。

 石間小学校も児童数減のため、統合されて廃校になることが決まっている。
 この先、交通不便なN集落では、集落ぐるみで平坦地へ移転したいという願いが出されていると聞いた。
 日本軍を相手に大義の戦いを挑んだほどの山村が、ぼろぼろと崩れつつある。
 山里の暮らしの軸となった里川は、単なる排水路と化し、川底に廃家電さえ転がる惨状だが、誰を責めればよいのだろう。

 卒業したS君も、都会に出ていってしまった。