入川軌道あと

1997,5,28撮影 |
秩父では、滝川と入川に、森林軌道が存在した。
滝川の軌道あとは、川又から豆焼沢の下流部にかけて存在したもので、いまでも道形の残ったところもあるが、ずいぶん荒廃が進んでおり、部分的には通行不能の箇所も多い。
入川の森林軌道についても、まだほとんど調べていないが、こちらはいまも十文字峠登山道として整備され、登山者や釣り人が毎日のように行き交っている。
入川軌道の起源は不詳だが、原全教がこの地を訪れた昭和初年には、川又からヤタケ沢出合まで運行していたという。
太田巌『奥秩父の伝説と史話』(さきたま出版会)によれば、歌人前田夕暮を社長とする関東木材合名会社が、入川に拠点を構えたのが1926(昭和元)年。これが入川集落の起源である。
関東木材は、入川流域の原生林を伐採し、製材と製炭をおこなった。
夕暮が自社の事業地である入川に疎開していた敗戦前後の時期には、赤沢谷に新たな集落が築かれるほどのにぎわいだったようだ。
赤沢谷には現在も、古い石垣の跡などが残っているが、これらはその当時の遺跡なのだろう。
関東木材合名会社の事業は、秩父兵器株式会社、さらに西武木材株式会社へと引き継がれた。
木炭生産を主力とするこの地域の林業は、六○年前後の「エネルギー革命」によって崩壊し、その後は原生林の皆伐に転換し、一○年もたたないあいだに、めぼしいところは伐り尽くしたという。
軌道も最後は、西武建設が管理していたと聞くが、遅くとも七○年代初頭には、運行を停止していた。
現在、日本の林業は気息奄々たる状態にある。
このことについては、改めて別の機会ににお話ししたい。
いま、ふれておきたいのは、林産物搬出路としての林道についてだ。
搬出路がなければ、林業は成り立たない。
現在は、集材基地までワイヤを使って木材をおろし、トラックを使って搬出するから、林業にとって、林道は必要不可欠である。
修羅と川流し、筏を使っての材木搬出法にくらべれば、森林軌道の方がはるかに安全で労も少ない。
ワイヤとトラックの方が、森林軌道よりさらに軽便であるし、なによりも、特殊な技術が不要だ。
しかし、われわれは、現在の生活や自然環境を次世代に伝えることを、そろそろ真剣に考えなければならないところにさしかかっている。
伐採や植林を終えた林道は、常時崩壊し続けるから、仮に廃道になっても、半永久的に土壌や植生を破壊し続けるし、使用を続けるためには、補修し続けなければならない。環境にインパクトを与えない道路補修は不可能だ。
また、トラックは最大の温暖化ガスである二酸化炭素を排出する。
道のわきには、ゴミの不法投棄なども見られる。
ためにする公共工事でなくても、林道が地球に与えるダメージは大きいといわざるを得ない。
前田夕暮がいた当時の入川軌道は、挽馬に曳かせていたようだ。これがディーゼルエンジンであっても、トラックが行き交うよりは自然にやさしいだろう。
さらに、森林軌道は、用済みになって廃止されても、数十年後には、少なくとも一見した限りでは、ほぼ完全に自然が復活する。
林道をやめて森林軌道を、といっても、アナクロニズムと嗤われそうだが、五○年先を見通せば、こういう木材搬出法があったことを記憶しておくことは、意味があるのではなかろうか。
参考文献
内山節編『森林社会学宣言』(有斐閣選書)
太田巌『奥秩父の伝説と史話』(さきたま出版会)
原全教『奥秩父 続編』(木耳社)
ニフティFFISHのキントキさんからも、貴重な事実をご教示いただきました。
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