明日を創る

 埼玉の大地は、荒川や利根川が運んできた、沖積平野に位置する。
 奥秩父の山が埼玉の母とすれば、荒川が父ということになるだろう。
 永遠とも思える、ゆったりした時間の流れの中で、埼玉平野は形づくられてきた。
 その荒川の水源、奥秩父の山塊は、埼玉の原点である。

 採集経済時代の人間は、万物に宿る精霊の存在を確信していたらしい。
 彼らは、自分たちが、あまたの精霊によって生かされているという自覚を持っていたから、自然への畏怖の念を失わなかったし、自然の怒りをかったと感じたときには、いけにえを捧げるというほどの、痛烈きわまりない自己反省を怠らなかった。

 稲作をおぼえてからも、日本人は長く、自然に対する謙虚さを失わなかった。
 農業にたずさわるにせよ、狩猟や漁業に従事するにせよ、人間を自然の上におくことは、バランスのとれた自然の上になり立つ、自分たちの生活基盤を掘りくずすことにつながった。
 したがって、再生産可能な自然の利用以上に及ぶ、自然からの略奪は、タブー視され、堅く遵守された。

 そのような態度に変化の兆しが見られはじめたのは、江戸時代の半ばに、貨幣経済が農山村に浸透したころ。
 近代に入ってから、その傾向は、時とともに強まった。
 しかし、自然を金もうけの対象としてしか見ないほどの拝金主義に急速におちいったのは、高度経済成長の時以降だろう。

 奥秩父の原生林は、私の見るところ、樹種の多様性といういう点で、きわだった特徴を持つ。
 モミ、コメツガのような針葉樹に、ブナ、トチ、ケヤキ、カツラ、カエデ類などがみごとに混生している。
 多様な森こそが、多様な、数多くの生物の棲息を可能にする。

 この森は、江戸幕府が、御林山として百姓のみだりな立入を禁じてきたおかげで、原生状態が近代まで保たれてきた。
 ここに斧が入りはじめたのは、明治末期と思われるが、詳細はわからない。

 昭和初期から戦後にかけて、関東木材合名会社という民間資本が、奥秩父の伐採を大々的におこなった。社長は、前田夕暮。
 大滝村の、川又と入川のふたつの集落は、昭和になってから、伐採基地に作られた林業労働者の村である。
 もっとも価値ある材を有していた国有林で、製材・製炭がおこなわれ、原生林の奥深く敷設された森林軌道で、製品が搬出された。

 再軍備や安保条約の改定をめぐって、日本が揺れていたころ、奥秩父の原生林はどんどん消滅していった。
 教員組合が、民主教育のために、はなばなしく闘っていたころのことである。

 一九六○年前後は、日本の民主主義の岐路であったと同時に、「エネルギー革命」の出発点でもあった。
 木炭の需要は激減し、石油がとって代わった。
 新しい電化製品やモータリゼーションに、われわれも、踊らされた。
 自然環境に基盤を持たない第三次産業の隆盛とともに、自然は投資の対象になりさがった。
 農山村は、都会に資源と人間を収奪される、内国植民地と化した。

 秩父の原生林は、見通しのないまま、大伐採時代に突入。
 一九七○年には、伐れるところはすべて伐り尽くし、関東木材を受け継いだ西武木材も撤退。
 荒れた山と廃屋だけが残された。

 伐られてから三○年以上が経過し、埼玉のみなもと、秩父の森は、静かに回復の道を歩みつつある。
 秩父の森の破壊をいちど許したのは、あきらかに、社会にばかり目を向けていたわれわれの手抜かりだった。
 しかし、これ以上、破壊の手が及ばなければ、数百年後にはきっと、原生の森が復活するだろう。
 この過ちも、繰り返してはならないと思う。
 明日を創るために。

**さいたま教育文化研究所編『明日を創る』第7号(1997,10,1発行)にのせたエッセイを転載しました。