小鹿野高校定時制の募集停止「決定」が示すもの

 埼玉県教育委員会は、1999年度以降、県立小鹿野高校定時制課程の生徒募集を停止することを「決定」した。
 この「決定」の手続きたるや、公的機関とは言いがたい、ずさんかつ、不当なものだった。
 本稿では、この「決定」に端を発した、小鹿野高校定時制をめぐる状況を振り返るとともに、これからの教育がどのような方向に向かおうとしているかを、考察してみたい。

一、自分さがし

 かつて、秩父郡市には、小鹿野高校と秩父農工の二つの定時制中心校、秩父農工の皆野分校、荒川分校、小川高校の東秩父分校と、五つの夜間定時制高校が存在した。
 なかでも、皆野分校は、独立校舎を持つ定時制高校として、県内にあっても出色の良好な教育条件を持つ学校であったが、設置者兼管理者であった皆野町外一市一町学校組合から見放され、1984(昭和59)年3月をもって、歴史を閉じた。

 これらの定時制高校は、勤労青年に後期中等教育の場を提供することを目的としていた。
 働きながら学びたい人には定時制が、勉学を専一にしたい人には全日制が、用意されていたのである。
 1970年代後半に入って、全日制高校への進学率上昇と生徒増を背景に、埼玉県も新設校ラッシュの時代を迎えた。
 また、郡市内の中堅企業は、かつては現場の主力をなしていた中卒労働者の採用を中止するようになった。
 定時制高校が変容していったのは、ほぼこのころである。
 1980年前後以降の定時制高校は、全日制の入学試験に合格できなかった人や、全日制を退学した人の拠り所となった。

 さらに、1990年前後の高校生急増期には、県下の定時制高校へ、全日制へ進学できなかった人々が殺到した。中学生・高校生の「荒れ」が指摘されていた当時である。
 県下の定時制高校は、「学力」面のみならず、さまざまなつまづきを経験した青年たちの苦闘の場となった。
 じつに多様な困難をかかえた生徒が10名ほども留年している第一学年に、40名の多様な新入生が入学してきたのだった。
 生徒も教師も、苦しみの中にあったが、そこから何ごとかを学んでいった。
 勤労青年の学習の場であった定時制高校は、傷ついた若者たちの、自分さがしの場となり、挫折を自信へ、不信を信頼へ、悲しみを喜びへと変える、人生の道場となった。
 だから、卒業していく人々は皆、意気軒昂たるものがあった。

 1990年代の半ばになって、埼玉県の定時制高校に、次の波が訪れた。
 よきにつけ悪しきにつけ、あり余るエネルギーをもっていたそれまでの生徒たちに代わって、人間関係をうまく結べない人や、知的・身体的に障害がある人々が、定時制の門をたたくようになった。
 ある学校では、このような人々を受け入れ、ある学校は受け入れを拒否した。
 小鹿野高校定時制は、基本的にいかなる生徒をも受け入れてきた。
 多様な生徒を受け入れる小規模校にとっては、きびしい時代が訪れた。
 人間関係に困難を持つ生徒の発達課題に応えるためには、学校行事などの自主活動を重視しなければならない。しかし、県教委も校長も、生徒の現実に目をふさぐ一方で、指導教員数の削減など、教育実践の足を引っ張ることにばかり力を入れた。
 教育条件は悪化の一途をたどった。

 1994年度以降、小鹿野高校定時制では、校外行事において出張を認められなかった教員が自費で(あるいは同僚のカンパによって)指導にあたるということが常態化している。
 いうなれば、生徒や保護者、外郭団体の方々に支えられた現場教職員の熱意にのみ依存して、教育活動が維持されてきたといっても過言ではない。

 働きながら学ぶ生徒だけでなく、コミュニケーションに困難のある生徒、さまざまな障害を持つ生徒、全日制退学者、年長者など、じつに多様な人々が、小鹿野高校定時制を訪れた。
 あまりに立場をことにする生徒どうしの間で、時に亀裂を生じることもないわけではない。しかし、小鹿野高校定時制は、あくまでも多様な人々が共生しつつ、青年期固有の発達課題である自分さがしにとりくむ場であり続けた。

 生徒の持つ困難の質が多様なため、教師集団にとっては、毎年が新しい試練の連続であった。
 にもかかわらず、何年間かの高校生活の中で、ほとんどの生徒が、まるで別人かと思うほどの人間的成長をみせ、人間にとってもっとも大事な宝、生きる自信を持って卒業していった。
 生徒のこのような変貌が、教師集団の実践意欲を支えつづけた。

二、発端と経過

(1)発端

 ことの発端は、1997年10月10日付『毎日新聞』のスクープだった。
 この記事は、1998年度以降の熊谷高校定時制の募集学級減とともに、1999年度以降、小鹿野高校と行田高校の定時制の生徒募集を停止する計画があることを伝えていた。
 連休明けの10月13日、校長が県教育局(担当は教育改革室=当時)に問い合わせたところ、そのような計画があることを否定はされなかったという。
 これに対して、学校側は「現場や地域の意向を聴取ののち検討されたい」という趣旨の要望書を「教職員一同」名で提出。
 生徒会も、数度にわたり、全校集会を開いて、意見の交換をおこなった  一方、校長は「正式に決定が下されたわけではないから」などとして、事態を拱手傍観。
 県教育局から校長に対し、計画が正式に通告されたのは、10月21日。
 定例教育委員会のわずか二日前だった。

 埼玉県高等学校教職員組合(以下「埼高教」と略す)の定時制通信制教育部(以下「定通部」と略す)の役員と組合員教師は、22日に県教育委員各氏へのアプローチと、教育改革室との交渉をおこなった。
 この場で、鈴木宏昭教育改革室長(=のち春日部高校校長)は、「小鹿野の定時制がなくなっても、秩父農工定時制まで自転車で通学することは可能である」「県南には職場も学校もたくさんあるのだから、やる気があれば通学できる」などと発言。
 地域の実態を全く知らないまま、重大な提案をおこなっていることを自己暴露した。
 また、教育改革室では、「地域や学校と協議すれば、反対されるに決まっているから、協議はしない」という姿勢を明確にした。

(2)10.23埼玉県教育委員会

 校内では連日、全生徒・教師が放課後、話し合いをおこなった。
 10月23日の埼玉県教育委員会に提案がされるという情報が入ったため、急遽、生徒3名、教員2名が当事者として意見陳述をするために、仕事を休んで、県庁に向かった。
 しかし、教育委員会では、意見陳述は認められず、当局側の不正確な説明と、二、三の質疑があっただけで、採決もなく、募集停止が「決定」されてしまった。
 1997年10月24日付の『埼玉新聞』によれば、「委員会規則第9条は『委員会が必要と認めたときは、会議事件に関係のある者の出席を求めその意見を聞くことができる』と定めるが、これまで一度も行われていない。(略)また、意見陳述したいときの手続き方法も決まっていない」とのことであるが、これでは、制度があってなきがごとしというべきである。
 そのありさまを見ていた生徒は、「あれでも教育に携わる人たちなのか。あきれた」「あの人たちは、人の痛みがわからないのか」「県教委の人は、(実態を)何も知らずに机の上だけで決めている」と、憤った。

(3)学校の立場

 生徒も教員も、このような形で学校が廃止されることには、まったく納得がいかなかった。
 生徒たちは、全校集会や生徒会役員会で、この事態をどう受けとめるか、自分たちはどうなるのか、今後どうすればいいか、話し合った。
 教員も、職員会議等で何度も話し合った。
 生徒・教員のあいだでは、「決定」の再検討をの申し入れをすべきだという意見がほとんどだったが、校長が「募集停止もやむを得ない」あるいは「県教委に要求する立場でない」などと述べて、「決定」容認の立場を崩さなかったため、学校としての意見表明は、最後までできなかった。

 埼玉県の定時制・通信制高校には、定通教育をよくする会(以後「よくする会」と略称)という交流会がある。
 交流会の主催は定通校長会、目的は定時制・通信制に学ぶ生徒の交流を通じて生徒の自覚を高め、定通教育をよくすることである。
 「よくする会」では、年に一度、学習条件などについて、県教育局との話し合いを行っている。
 小鹿野高校定時制の生徒(2名)は、この機会に、自分たちの気持ちを県教委に伝えるようと、11月14日、またも仕事を休んで話し合いに臨んだ。
 しかし、ここでは、

教育局 小鹿野高校定時制の募集停止は、生徒がより学びやすくするための改革の一環である。
生徒  秩父農工定時制に通うのは不可能です。このままではより学びにくくなります。
教育局 秩父農工に通うのは可能じゃないかなあ。
生徒  時間的に不可能です。
教育局 秩父農工に通って下さい。

というような会話となり、生徒の声は局の人には伝わらなかった。
 しかし、この際におこなった記者会見の後、各新聞社が小鹿野高校定時制の問題について報道してくれるようになり、生徒・教員ともに勇気づけられた。

(5)請願署名

 生徒会では、この問題について、世論の力を借りて、教育委員会に自分たちの気持ちを訴えようということにまとまっていった。
 11月下旬の生徒会役員会で、埼玉県教育委員会に宛てて、請願署名を始めることを決定。
 校長・教頭を除く教員も、全員が協力することになった。
 署名は、生徒や保護者の友人、職場、卒業生、日頃お世話になっている事業所、近隣の学校や県下の定時制高校などにお願いした。
 また、教員の知り合い、友人、埼高教、秩労連傘下の一部の労組などにもお願いした。
 唯一、埼高教小鹿野高校全日制分会には協力を断られたが、このような例はまれで、ほとんどの人々が暖かく協力して下さった。
 中でも、大宮商業高校生徒会では、「定時制高校募集停止決定に対する抗議文」を県教育委員長に提出し、他の定時制高校生徒会に対し、連帯の呼びかけをしてくれた。
 また、各新聞社の浦和支局の皆さんにも、勇気づけられることが多かった。

(6)審議もしない 回答もしない

 多くの県民のご協力により、12月16日には、約8000名分の署名を県教育委員会に提出することができた。
 ところが、教育委員会では、請願が出されていることを委員会の「資料」という形で委員に知らせただけで、いまだに審議さえしないで、放置している。
 日本国憲法第16条は、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と、記している。
 また、請願法(この法律は昭和22年5月3日に施行された憲法の双子の兄弟というべき法律である)第5条は、「この法律に適合する請願は、官公署においてこれを受理し誠実に処理しなければならない」と、記している。
 この点について、埼玉県教育局では、「今まで請願を審議した前例がなく、個別の請願者に対し回答した例もない」「請願や要望、陳情などのすべてに対応するのは困難」などと述べている。
 埼玉県教育委員会では、審議も回答もしなくても、「違法であるとは認識していない」(教育改革室吉沢主幹=のち高校第一課主幹)などと、言っている。
 しかし、国民の基本的人権として憲法に明記された「請願」と、「要望・陳情」とを混同できないのは当然ではないか。
 埼玉県教育委員会は、おそらくは意図的に違憲・違法行為を白昼堂々と、行っている。
 これでは、地方公共団体とは、とてもいえないのではないか。

(7)現状

 返事がない以上、1998年4月現在、小鹿野高校定時制では、1999年度以降の募集停止が完全に決定されたとは、考えていない。
 手続き的にも、内容的にも誤った「決定」は、見直すべきだと考える。

三、定時制廃止の問題点

(1)交通不便地域の切り捨て

 埼玉県教育局が、小鹿野高校定時制を廃止する理由として挙げてきたのは、1978(昭和53)年に出された埼玉県高等学校教育振興協議会の答申(「78答申」と略称する)で、二年連続して入学者が10人未満、また二年連続して在籍40人未満だった場合、生徒募集を停止するとある点に該当する、ということだった。
 先にも述べたように、1978年ころは、勤労青少年から、全日制に行かない生徒に中心が移る、定時制高校の変容期だった。

 その後、1980年代後半になって、高校生急増期が訪れた。
 「78答申」直後、多くの定時制高校(分校を含む)が廃止されたが、急増期には、学級定員増(当時普通科は48人学級だった)や臨時学級増によっても入学希望者を受け入れきれず、定時制でも入試で落とされる受験生が続出した。
 当時、小鹿野高校定時制にも、秩父農工定時制に入れないため、はるばる皆野町から、暗い夜道を自転車で通っていた生徒が何人もいた。もちろん、就学を断念させられた生徒も多かったはずだ。
 皆野分校が存続していれば、このような無理はせずにすんだのに・・・。
 皆野分校が存廃の岐路に立ったとき、生徒・父母は、定時制に行きたいという意欲があれば就学できるよう、分校を存続させてほしいと願ったのだが、「78答申」を機械的に適用した結果、「能力に応じた教育を受ける権利」は保障されなくなってしまったのだ。

 今回の小鹿野高校定時制の募集停止にあたって、県教育局では、「秩父農工定時制まで自転車で通うことは可能である」「バイクや自動車の免許は、年齢に達すればだれにもとれる」(いずれも鈴木改革室長)などと主張している。
 しかし、授業が終わるのは夜9時だし、部活動が終わるのは10時頃。
 それから三田川や倉尾、吉田、両神まで、どうやって自転車で帰れというのか。
 また、さまざまな事情で、バイクや自動車の免許をとることのできない人々はどうすればいいのか。

 鈴木氏は、「通学の可否は、やる気の問題だ」と述べるが、後日ただしたところ、決定する前に、提案者の県教育局も審議・決定者の教育委員たちも、現地視察さえしなかったという。
 20年も前に出された「78答申」を機械的に適用することによって、全日制以外への就学の機会が奪われてしまう。
 それでは、全日制に行けばよいではないかというが、現在、日本の全日制高校は、多様な人々がそれぞれのペースで共に学べる場所にはなっておらず、定時制廃止が、今の全日制という狭い枠にはまらない人々を教育から排除することになってしまう。

(2)「教育効果」についての誤認

 県教育局は、生徒数が少ないと教育効果が乏しい。今回の決定は、県の財政上の問題から出たものではなく、定時制・通信制でより学びやすい条件をつくるための改革の一環である、とも主張している。
 これが、子どもは集団の中で育つものだということをふまえた上で言われているなら、その限りにおいては、あながち的はずれとはいえない。
 まして、コミュニケーションの苦手な子どもたちにとって、一定数の集団の中で自己形成を遂げることには、大きな意味がある。
 だが、一方、小人数で、きっちりと面倒を見た方がよい場合だって多いのだ。
 面積でいえば、秩父郡市の数分の1に過ぎない浦和・与野・大宮市には、定時制高校が7校、9課程おかれているが、小鹿野高校と秩父農工は、すぐとなりに同じような学校があるのとは、ちがう。

 生徒数が一定数いた方がいいということに正当性があるとしても、学校に行けなくなってしまっては、なんの意味もない。
 どのような教育が効果的かは、教育を受ける権利を保障した上で語るべきことだ。

(3)「共生」の教育の否定

 県教育局は、今の定時制には、勤労青少年以外の生徒が在籍しており、それは本来の定時制のあり方に反する、とも言う。
 夜間定時制という制度は、戦後まもなくの時期に、主として経済的事情から全日制高校への就学が困難な生徒のために、設けられた制度であるが、働かざるものは学ぶべからずという理念があるわけではない。
 要は、何らかの事情で全日制高校への就学が困難な人々に対しても高校教育の機会を保障するというのが、定時制という制度の主眼なのである。

 そういう意味で、勤労青少年以外の生徒も在籍する現在の定時制が、競争と選別・生徒管理によって荒廃した今の教育の中で、弱い立場にある人々が寄り添う場となっているのは、なにもおかしなことではないばかりか、ある意味で必然といっていい事態である。
 定時制を卒業した人々のほとんどは、働きながら学んだことに、ことさら誇りを持っているし、在学時働いていなかった人々も、定時制で学んだことを、生きていく上での心の支えにしている。
 それは、年齢も、学力も、国籍も、性格も、障害の有無も、髪の色も、学歴も、じつに多様な人々が、ひとつの教室の中で、たがいに排除し合うことなく、人間的な関わりを持ち、自分を探すことができる場だからだ。

 全日制でこのようなことがまったく不可能だというつもりはない。
 しかし、それが絶望的なほど困難なのが、今の教育の現実なのだ。
 定時制がなくなると、全日制に行かない人々が高校教育を受ける機会は、ほぼ閉ざされる。

(4)県民、地域住民への背信

 教育委員会でも県議会でも、小鹿野高校の募集停止を、地域や学校と事前に相談をしたかどうかという点が、何度も問題にされた。
 これに対し、県教育局では、教育委員会でも県議会でも、「学校とは校長を通して緊密に連絡を取り合ってきた」、あるいは「地域のあらゆる階層の意向を校長を通して聴取してきた」という説明をおこなってきた。

 ところが、事実は経過のところで述べたとおりであり、教育局が事前に調べたのは、生徒数や教員数、通学距離などわざわざ校長から聞くまでもなく、「学校要覧」を見ればわかる程度のことばかりで、肝腎な現地調査は、一度もおこなっていないし、募集停止に対する校長からの意見聴取も、一度もおこなっていない。
 「地域のあらゆる階層」というが、校長は定時制問題について、小鹿野町長と会話したこともないし、話してもいないことを県に報告できるはずもない。
 つまり、県当局が教育委員会や県議会で、公式に答弁して来たことは、嘘なのだ。

 県民の代表に対し、おおやけの場で、平然と嘘を述べることが許されてもよいものだろうか。
 また、募集停止の決定をおこなった教育委員会や、決定撤回請願を不採択にした県議会は、嘘答弁に基づいてものごとを決めたことになる。
 関係者による委員会・議会での事情陳述の機会が保障されなかったため、やむを得ない側面もあるとはいえ、虚言を鵜呑みにして何かを決めるということが、まかり通ってよいものだろうか。
 今回の手続きは、民主政治の根幹を否定するものだ。

(5)山村の崩壊

 1960年代以降、日本は、第二次産業、第三次産業に厚く、農林漁業を軽視する産業政策をとり続けてきた。
 高速交通網や通信網などの基盤が整備され、「大生産・大消費」という都市的な経済構造がつくられた。
 国民の意識も、都市的価値観に平準化されたので、農山村住民が、「豊か」な消費生活を望んだのは、無理からぬことだった。
 しかし、「大消費」経済は、はたして日本という国の身の丈に合っていたのだろうか。

 「豊か」に消費するためには、現金収入が必要だ。
 かつては、土地や技術を持たぬものが働きに出たものが、働きに出た方が現金収入を得られることになった。
 交通や流通、通信に便利な立地にいた方が有利なのは当然だから、企業は都市近郊に集中する。
 企業は、労働力を誘引するから、都市近郊は消費に便利な場所となる。
 一方、日本の農山漁村は、若干の補助金と交換に、労働力を提供し、水を提供し、電力を提供し、遊びの場を提供し、原発や廃棄物処理場など、「大消費」を維持するために生じる迷惑施設を受け入れねばならなくなった。

 県教育局の役人たちは、はからずも、「県南には職場も学校もたくさんあるのだから」(鈴木教育改革室長)などと放言し、今回の「決定」によって、西秩父地区から定時制高校に行けなくなることを認めた。
 しかし前述のように、定時制教育は、現在の教育制度の中で必要不可欠な位置を占めているのだ。
 子育てが安心してできないところで、人間は生きられない。
 この「決定」は、西秩父の教育弱者は、事実上、就学の道を絶たれてしまう。
 弱者が安心して生きられない場所が、ふつうの人々にとっても、住みやすいはずがない。

四、展望と今後の日本

 現在、問題の焦点は、財政改革路線をどうとらえるかということだと思う。

 冷戦崩壊後の世界の企業は、「自由化」を合い言葉に、多国籍化をすすめてきた。
 日本の企業も例外ではない。
 自動車やハイテクをはじめとする、日本の製造業が、アメリカなどの多国籍企業に伍していくために、技術力の研鑽や、労働者や下請けに犠牲を強いる低コスト体質につとめてきたことは、事実である。
 さらなるコストダウンの方策は、法人税の軽減をはじめとする企業優遇税制による以外にはない。
 そのためには、農林業や医療・福祉、教育などの部門への支出を削減し、国民の自助努力を喚起しなければならない・・・。
 政治的思惑による部分的な歪曲を受けつつ、現在、政治の基本的な流れは、そのような路線を下敷きとしている。

 思えば、地域に即した「豊かさ」ではなく、官・財主導の「豊かさ」の道に乗って進んできたのが、明治以来の日本の近代化路線そのものだった。
 しかし、問われるべきは、そのような近代化のあり方そのものではあるまいか。
 秩父が平地になることが重要なのではない。
 秩父らしい、斜面に根ざした人生を、誇りの持てる、豊かなものとして築くことができる地域づくりが求められるのではなかろうか。

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