圧制を変じて自由の世界を

信州南佐久

十石峠

 秩父困民軍は、明治17年11月7日、十石峠を越えて信州に入った。
 峠の位置は当時のままだが、当時の峠道は現在の自動車道路とは全くちがう。
 十石峠では、捕虜として連行されてきた前川彦六巡査が殺害された。

竜興寺

 ここは大日向村。のちに、満州開拓団で一大悲劇を体験した村だ。
 11月7日の夜、困民軍が宿営したのはこのお寺だった。

井出家本陣

 11月8日、困民軍は、東馬流の戸長井出家を本陣として強借した。

秩父困民党散華之地

 11月9日早暁、碓氷峠を越えて来た陸軍高崎鎮台兵と、困民軍が銃撃戦を交わしたのが、このあたり。
 犠牲者の名前が刻まれた碑のかたわらには、菊池貫平・井出為吉の像が建っている。

秩父暴徒戦死者之墓

 事件50年を期して、菊池貫平の孫たちが建てた。
 東馬流の戦いで倒れた、名前もわからない農民戦士は、ここに葬られたという。

自由民権の雄叫び

 北相木村諏訪神社境内に建つ。秩父事件100周年を記念して秩父事件百周年顕彰委員会が建立したものである。

菊池貫平

 信州南佐久郡八那池村生まれ。北相木の自由党員で、困民軍参謀長。信州転戦にあたっては、困民軍総理。
 潜伏中、欠席裁判で死刑判決を受け、甲府で逮捕されたのち、無期刑に減刑され、北海道十勝監獄で服役。明治38(1905)年、無事に帰郷。

井出為吉

 北相木村のもと戸長で、自由党員。困民軍の軍用金集め方。自宅には、民権関係の書物が大量に保管されている。
 「革命本部」名の領収証を発行したのは、為吉だろう。
 事件後、軽懲役8年の刑に処せられた。

大竜寺

 南佐久の民権運動は、青年たちの自主的な学習サークルを通じて広がり、深まっていった。
 北相木の青年たちの集いの場となったのが、大竜寺。井出為吉や高見沢薫らが、ここで育った。