秩父事件殉難之地
清泉寺前から、右下に下っていく坂道が新志坂。
ここで、11月1日夜の結集にさきだって警官隊と困民党の農民との戦端が切られた。
この戦いで、柏木太郎吉(神奈川県)、年代道蔵(蒔田村)の二人の農民兵士がたおれた。
この碑は、1984年に秩父事件遺族会が建立した。
窪田巡査殉職碑
阿熊川沿いの車道右上の斜面に窪田鷹男殉職碑がある。
1943(昭和18)年に事件60周年を期して建てられた。
この年、同町が編纂した『秩父暴動史』は、殉職した警官を「愛機諸共、敵艦目がけて突入自爆して、之を轟沈撃破する荒鷲勇士」にたとえ、大々的に賛美した。
敗戦前には、祝日に教師が生徒を引率してこの碑を参拝したという。
椋神社
11月1日の夜、ここに1000人以上の民衆が結集した。
困民軍の「役割」や「五カ条の軍律」などはここで発表された。
記念碑とブロンズ像は、1984(昭和59)年11月、百周年事業実行委員会および吉田町実行委員会の手によって建立された。
吉田町歴史民俗資料館
駐在所そばにあるこの資料館には、事件関係の史料や絵画が展示されている。
養蚕具や民具の展示も充実している。
井上伝蔵屋敷跡
会計長井上伝蔵は、幕末から明治にかけて、丸い商店を営む豪農だった。
井上伝蔵墓
伝蔵は、秩父自由党の幹事格。
俳諧や剣術を嗜む文化人であり、また連合村会の副議長をつとめる村の有力者でもあった。
事件後、しばし村内に潜伏し、その後偽名を名乗って北海道に渡った。
1918(大正7)年、死の直前になって家族らに事件の一部始終を語り、息子に同志の弔いを託したという。
貴布祢神社
『秩父暴動雑録』を残した田中千弥は、ここに勤めていた。
向かって右手にある剣額には、事件幹部の名前が読めたが、もう風化してしまった。
飯塚森蔵墓
元教員で困民党乙大隊長。
事件後の行方は不明であったが、大分や愛媛から戸籍が発見された。
墓石には北海道で没とある。
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