圧制を変じて自由の世界を

小鹿野・薄・小森

小鹿野町

 小鹿野町は、西秩父の金融の中心でもあり、何軒かの金融業者・高利貸が営業していた。
 また、盆地の一角には、事件前に、水力による機械製糸を企てた製糸フロンティア、薄製糸社も存在した。

小鹿野分署

 事件後、小鹿野分署では、秩父事件に参加した農民に対する、拷問を交えた取り調べが行われた。
 『秩父暴動雑録』には、「取り調べにあたる警官は、三尺ばかりの生木の棒を持ち、取り調べる前に、顔や頭を二三回殴ってから尋問する」あるいは「極寒の気候に衣服を脱がせ、庭の木につるす」などと記されている。

小鹿神社

 困民党軍は、巣掛峠下の腰ノ根集落の民家から炊き出しを受け、同所にある諏訪神社(現在は小鹿神社)に宿営した。

常盤屋

 常盤屋(明治初年の建築)の偉容は、生糸生産を背景にした、この時期の西秩父の経済活動の活発さを物語る。

薄製糸社あと

 1877(明治10)年、薄村の浅見卯作らは、水車動力による機械製糸工場を建設した。
 明治初年の機械製糸といえば、官営富岡製糸場が有名だが、秩父でも、民間の資本が、養蚕業の隆盛を背景に、機械製糸に挑戦しようとしていた。
 国家や権力の庇護を受けない資本力の弱さが致命傷となって、薄製糸社は消えていった。
 だか、その心意気は、受け継ぎたいものだ。

犬木寿作

 飯田村の精農で、飯田・三山村小隊長。
 薄製糸社や、それを受け継いだ共精社(座繰製糸)の経営に参加。
 事件後、軽懲役7年6ヶ月に処せられ、のち大赦。

吉田林五郎日誌

 小森村戸長役場であった出浦家には、宮川寅五郎隊の襲撃を受けた時の様子などを記した、吉田林五郎の日記が残されている。

烈士鈴木安吉の碑

 11月2日の早暁、浜松出身の宮川寅五郎が率いる一隊は、飯田村から薄、小森、贄川へと進撃した。
 荒川村上田野の国道端には、寅五郎を捕縛した上田野村連合戸長役場雇の鈴木安吉を称える記念碑(昭和6年の建立)がある。

宮川寅五郎

 寅五郎は、軍用金集め方。その日に集めた軍用金80円を、郡役所に入った田代栄助にただちに届けに行くなど、自分の任務を誠実に果たす男だった。
 2日午後からは、「自由党屯所宮川寅五郎」と書いた旗を立てて、再び上田野村方面の参加動員に奔走したが、3日の夕刻、捕縛。
 裁判では、蜂起前の資金強奪作戦の罪を加味され、有期徒刑15年の重刑を科され、北海道樺戸集治監に送られた。

宮下米三郎

 小鹿野町では、中心街からややはずれた位置にあった高利貸一軒が放火された。
 この際、類焼を防ぐために、困民軍幹部と交渉して「雲竜水」や「竜吐水」などの消防具を用意したのは、町の有力者の一人、宮下米三郎だった。
 事件参加者の近藤五平(飯田村)を刀で斬り殺したのも、宮下米三郎だった。
 町内では、いくつかの寺社で、当時の戸長田嶋唯一や宮下米三郎ら、困民党に対する自衛策に奔走した町の有力者によって寄進された石造物を見かける。