圧制を変じて自由の世界を

皆野・風布・日野沢・児玉

風布組のこと

 長瀞町と寄居町を分ける山間にある風布村では、明治17年10月31日、金毘羅神社に農民たちが集まった。
 ここに集まったのは、男衾郡や榛沢郡などからきた人々と風布・金尾村の農民だった。
 金毘羅神社には今、風布組参加者遺族によって秩父事件の追念碑と観音像が建てられている。

大野福次郎

 風布村・金尾村の組織者だった大野福次郎の墓は、蕪木耕地にある。
 事件前に捕まったにもかかわらず、軽懲役7年6ヶ月に処せられた。

大野苗吉

 乙副大隊長。金屋の戦いで戦死したのではないかといわれる。
 墓はないが、大鉢形耕地に、墓に代わる祠がある。

新井周三郎

 男衾郡西ノ入村の豪農の息子で教員。事件当時22歳で、甲大隊長。
 捕虜にした青木与市巡査に斬られて重傷を負った。
 事件後逮捕されて、死刑となった。
 墓は、折原駅近くの屋敷跡そばにある。

押ん出し河原

 大野福次郎に率いられた風布組は、10月31日の夜、現在の親鼻橋下流の荒川河原で警官隊に遭遇し、無抵抗のまま逮捕された。
 親鼻の渡し場では、11月3日に、困民軍と憲兵隊との銃撃戦が行われた。この戦いでは、憲兵隊側が退却した。

皆野本陣

 11月3日に田代栄助ら幹部は、大宮郷から皆野へと、進行した。本陣は角屋(現在は旅館営業はしていない)に置かれた。
 また、新井周三郎ら甲隊の主力は、川をはさんだ国神の長楽寺に布陣した。

金子惣太郎殉難碑

 親鼻の渡し場近くで、渡し船の船頭だった金子惣太郎が事件後参加者の捜索に来た警官によって「扇動」と誤認され、斬り殺された。
 まことに不幸な犠牲者である。

金崎村永宝社あと

 金崎村の永宝社は、困民党にいち早く襲撃された銀行類似会社だった。
 現在は、近くにある山田懿太郎のレリーフが、存在を偲ばせるばかりだ。

青木与市巡査の殉職碑

 国神の長楽寺前には、青木巡査殉職の地を示す小さな石碑がある。
 新志坂の戦い以来、捕虜になっていた青木巡査が、突然大隊長新井周三郎に切りつけたのだが、巡査は農民兵士によってその場で殺された。

中庭蘭渓

 日野沢の重木耕地は、秩父で初めて自由党に入った中庭蘭渓の屋敷跡や墓がある。
 彼は、また熱心な禊教徒だった。

村上泰治

 10代半ばで自由党に入党、まもなく秩父自由党の最高幹部となったが、密偵暗殺の嫌疑によって逮捕され、1887(明治20)年21才で獄死した。
 事件当時は在獄中。
 泰治を救うべく、浦和監獄襲撃を叫ぶ事件参加者もいた。

円通寺墓地

 11月4日の深夜、困民軍は金沢村からから児玉町に向かう途中、金屋村で、陸軍東京鎮台兵と銃撃戦。
 ここで多くの農民兵士が倒れた。
 円通寺に葬られた無縁仏のために、立派な供養塔が建てられている。