圧制を変じて自由の世界を

秩父養蚕業小史

 秩父地方の絹織物は、江戸時代に始まる。

 絹織は、金納年貢を納入するための重要な副業の一つで、自家養蚕・自家製糸・いざり機による自家絹織という形だった。
 農家の女性によって織られた絹は、秩父妙見の霜月の大祭を期して立つ、絹大市で絹商人に販売された。
 従って、郡内一般に、養蚕は江戸時代から盛んだった。

 しかし、19世紀半ばに鎖国が解かれてからは、状況が一変した。
 世界の工場であった欧米諸国は、製品である絹ではなく、絹の原料としての生糸を求めた。
 秩父の家内工業としての絹織物業は、一時的に衰退し、代わって、製糸業が脚光を浴びた。

 欧米諸国は、高品質の生糸を求めたから、人々の関心は、養蚕と製糸に集中した。
 養蚕の面では、武州児玉郡の木村九蔵が体系化した「温暖育」が、普及した。
 「温暖育」は、養蚕学校競進社を組織し、カイコ成育中の温度管理と湿度管理を徹底することによって、安定的に収穫を得る技術だった。
 秩父困民党創立者の一人、坂本宗作は、競進社主催の品評会で入賞した経歴を持っている。

 養蚕におけるもう一つのエポックは、高品質の糸を製する山繭飼育の流行である。
 山繭を飼育するには、生きたクヌギの葉を使わねばならず、虫の卵も秩父近傍では入手できない、貴重なものだった。
 やはり困民党創立者の高岸善吉は、20円の大金を投じて、信州安曇野から山繭の卵を購入した。
 また、困民党総理の田代栄助も、困民党に参加するまで、家の裏山で山繭の飼育に没頭していた。

 製糸業の隆盛の一方で、絹織物業は、輸出に適さない玉糸・くず糸を使った太織生産にシフトした。
 秩父銘仙の名によって復活した秩父の絹織物は、戦後に至るまで、布団地などを中心に、主要な地場産業であり続けた。

 しかし、高度経済成長期には、化学繊維の流行などによって需要が減少し、1970年前後には機屋(織物工場)も電子部品メーカーなどに転換していった。
 戦前・戦後の日本経済の屋台骨を築いた養蚕業も、生糸価格の低迷によって次第に衰退し、現在なお養蚕を続けている農家は、ほとんどみられない。

この項目に関する参考文献

  • 柿原謙一『秩父地方郷土史雑考』(1993 小石川書店扱い)
     近世から明治初期にかけての秩父の絹織物業に関する重要な論文が収録されている。秩父事件の経済的背景を知る上での必読文献である。

  • 埼玉県秩父繊維工業試験場編『秩父織物変遷史』(1960)
     古代から現代に到る秩父地方の絹織物業の通史である。

  • 中澤市朗・吉瀬総「秩父困民党の主体形成」(1994 福尾武彦他編『人びとの学びの歴史・下』所収 民衆社)