秩父事件は、埼玉・群馬・長野三県の民衆によって起こされた。
だから、秩父事件の政治的背景を考えるためには、それらの地方それぞれについての地域研究が必要だろう。
ここでは、主として秩父地方における思想状況について概説する。
幕末の秩父地方には、民衆レベルでは、体系化された思想というようなものは形成されていなかった。
世直しの状況下では、幕藩制的な秩序意識が崩壊し、村落自治の気風が育ちつつあった。
民衆の政治的自覚を促した要因の一つは、富国強兵を基本とする政治そのものだった。
国のための学校の設置、国のための地租改正、国のための殖産興業、国のための徴兵制が次々に施行された。
これらの諸改革が、民衆にとっての国家体験だった。
明治12年11月、下吉田村椋宮学校で開かれた、下吉田・久長・阿熊・上日野沢4ヶ村の連合村議会の記録が残っている。
この会議の開催にあたって、笠原という傍聴人は、議長の許可を得て述べた祝辞の中で、「ここにいる議員のみなさんは、地区内人民の選挙によって自治の権限を委任された鋭敏な自由論党の人々である。自由論者の智力と勉強によってものごとを決定し、古い宿弊を取り去ることができる日も近いだろう」と挨拶した。
のちに秩父困民軍会計長となる井上伝蔵は、この議会の副議長。
史料で確認できる秩父事件参加者は、議員35名中、17名にのぼる。
一方、この会議では、椋宮学校の校長であった山田懿太郎も祝辞を述べた。
山田懿太郎は、金崎村の富家で教育者。
思想的には、福沢諭吉的な国権主義的啓蒙思想の持ち主だった。
明治16年には、奨学団体秩父教育義社を設立した。
秩父教育義社には、山田懿太郎のような国権主義啓蒙家のほかに、坂本村の福島敬三や下日野沢村の村上泰治ら、自由党員も加入していたが、民権派はあまり積極的に活動した形跡がない。
この時期、秩父では、民権派と国権主義者とがときに共同し、ときに対立するという思想状況の中で、明治17年のその日を迎えたといえよう。
この項目に関する参考文献
- 千島寿『困民党蜂起』(1983 田畑書店)
秩父教育義社について詳しく考察している。
- 『埼玉自由民権運動史料』(1984 埼玉新聞社)
下吉田・久長・阿熊・上日野沢4ヶ村の連合村議会の議事録が収録されている。
- 中澤市朗・吉瀬総「秩父困民党の主体形成」(福尾武彦『人びとの学びの歴史・下』所収 1994 民衆社)
秩父民衆の政治的主体形成過程を考察している。
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