圧制を変じて自由の世界を

秩父事件とはどういう事件か

 1884(明治17)年10月31日から11月9日にかけて、埼玉・群馬・長野などの民衆数千人が負債の延納、雑税の減少などを求めて武装蜂起した。

 山国秩父では、江戸時代なかば以来、養蚕がさかんだった。
 農民たちは、石だらけの傾斜地に桑を植え、蚕を飼って糸をとった。

 1859(安政6)年にヨーロッパ・アメリカとの貿易が始まってからの、日本の最大の輸出品は生糸だった。
 秩父の農民がつむいだ生糸も横浜に運ばれ、イギリス商人らに高値で買いとられていった。

 明治に入ってからも、秩父の農民たちは、桑の増産や、養蚕・製糸のための道具の改良に知恵をしぼった。
 養蚕先進県群馬と接する秩父地方には、温度管理・湿度管理を徹底することで繭の安定した収穫をはかる児玉町・競進社系の「温暖育」などが導入された。また、水力を使った機械製糸工場を創業しようとする人々や、困難ではあるが成功すれば大きな利益が見込める天蚕飼育に挑戦する人々もいた。

 山国秩父で、斜面の多い大地に根ざした近代産業をいかにして創っていくかが、地域の課題であり、人々は、金融業者から借りた資金を設備投資に投入した。

 明治初年から松方デフレの時期まで、ヨーロッパで蚕病が流行したことも手伝って、景気はおおむね好況に推移した。経済的な活況を反映して、村の祭りがはなやかに催され、芝居(歌舞伎)・踊り・人形芝居・相撲・剣術などの民衆娯楽・芸能が開花した。

 各地から、さまざまな人々が秩父に往来し、新しい情報が秩父の谷にも流れこんだ。(民権期の思想状況)
 自由民権の思想もそのひとつである。

 1879(明治12)年に下吉田・久長・阿熊・上日野沢連合村会の記録には、「自由」や「権利」を謳歌することばが躍っている。

 1881(明治14)年に、板垣退助らによって日本で初めての政党である自由党が結成された。1882(明治15)年には、群馬県の自由党員の影響で、下日野沢村の中庭蘭渓が自由党に入党し、秩父に自由党の組織が作られていった。

 1881(明治14)年以後大蔵卿に就任した松方正義によるデフレ政策の影響が出始めたのは翌年あたりからだった。軍備を拡大するための間接税の増税と緊縮財政によって、各地の農村は深刻なデフレに見舞われた。
 その影響によって、生糸の価格は大暴落し、養蚕に賭けていた農民たちの生活は破滅に瀕した。学校費の負担や、国政に関する業務の拡大によって増える町村費が、彼らの負担を重くした。

 1884(明治17)年2月には、自由党幹部の大井憲太郎が来秩し、演説会を開いた。
 また、落合寅市の回想録によると、同年3月に東京で開かれた自由党大会の際、大井憲太郎ら有志が専制政府転覆に向けた地方の組織化を、秘密のうちに決議した。高岸善吉がこれに参加し、帰郷後秩父の自由党員らに伝えた。

 この年の養蚕が終わったあと、負債に悩む秩父の農民たちは、各地で山林集会を開き、困民党と呼ばれる集団が組織されていった。その中心は自由党員であり、困民党の活動を通じて自由党に入党する人も出てきた。

 自由党中央は、政府による懐柔と抑圧によって、広範な国民を組織する展望も力量も失っていたが、在地の自由党員を中核とする秩父困民党は、請願活動や高利貸との直接交渉をくり返す中で、武装蜂起路線を決定し、1884年10月半ば以降、資金面をはじめとする蜂起準備に入った。

 決起に向けた組織活動は自由党員ら(少なくとも300名以上の党員が存在した)によって進められ、秩父地方だけでなく、秩父に隣接する埼玉県男衾郡や大里郡や、群馬県多胡・緑野・南北甘楽郡、さらには長野県南佐久郡に及んだ。

 11月1日の夕刻、吉田町椋神社で困民党が武装蜂起した。総理田代栄助以下の困民党役割五ヶ条の軍律は、ここで決定された。

 困民軍は、同日深夜には小鹿野町、翌日には郡都大宮郷を占拠し、さらに皆野町に進んだ。
 しかし、政府側は警察のみならず、憲兵隊や東京鎮台までを動員し、徹底的な武力鎮圧をはかった。
 困民軍は、群馬県山中谷をへて長野県南佐久まで転戦したが、11月9日に壊滅した。

 各地の戦闘での戦死者は、困民党側で25名を超え(正確にはわからない)、警官が3名、他に無関係の婦人1名が亡くなった。
 事件後の裁判の結果、死刑7名を含む4000名余が処罰され、事件は「秩父暴動」と呼ばれて、郷土の恥ずべき歴史として記録された。

 一方、事件参加者をはじめとする、復権に向けた活動も行われ、ねばり強い顕彰運動の中で、事件の史実が解明され、事件の正しい姿が定着した。

 しかし、未解明の部分も多く、今後の課題も大きい。