庚申信仰の源流とその変容についての、実証的な研究。
参照されている日本と中国の文献量が凄まじい。
宗教と民俗の最近の記事
出羽三山信仰について百科全書的に解説した書。
江戸時代の出羽の山里で山伏の生活ぶりを描いた小説。
修験道とはそもそもなにかというところから説き起こし、修験道的観点からみた現代文明論にまで、論じられている。
イスラム教の教義や信仰について、わかりやすく解説した本。
秩父地方では神の御眷属とされている狼信仰の周辺を探った本。
大峯で千日回峰行を行った青年僧と禅僧の対話。
列島の歴史の素描。
網野善彦氏の列島史は文献や考古資料によって徹底的な実証を経て描かれているが、本書の記述はとくに文献的な実証についてはラフイメージである。
無数の島々が浮かぶ瀬戸内海に生きた人びとの歴史を描いた書。
考察の対象は、島の「農民」ではなく、海を生活の主たる舞台としてた人びと(本書では「海民」と呼ばれている)である。
浄土真宗の流れの中には、江戸時代に、権力や世間から信仰を隠蔽した人々が存在した。
そもそも、列島の諸大名の中に、真宗信仰を禁じたものがいたということ自体、認識していなかった。
著者による、大阪・京都紀行。
微笑する荒彫りの仏像の作者といえば円空を想起するが、甲州に木喰行道とその弟子の木食白道がいる。
本書は、史料の少ない白道の評伝である。
文献史料とフィールドワークの両面からサンカの歴史的位置について考察した書。
三角寛のサンカ「研究」をていねいに論破している。
著者による金沢・大和紀行。
大血川は、魚は多い割にスレていて、なかなか釣れないが、通い慣れた川だ。
主人公が、大血川の崖下で生まれたことになっているから、この小説を読んでちょっと驚いた。
著者による博多・沖縄紀行。
国家の定めた身分の体系の外で生きていた人々(マージナル・マン)の存在と役割についての対談。
前半は差別された非定住民だったサンカと家船についての考察。後半は東京の下町に暮らした被差別者についてのエッセイ風の評論である。
過日なくなられた著者による、おそらく最後の著作ではないかと思う。
秩父市内から横瀬町内にかけての散策ガイドだが、たいへん詳細に書かれていて、本書を片手に歩いてみたくなる。
宮本常一氏による、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』ゼミナールの記録。
民俗学的分析を通して、山村の主として精神世界が戦後に、どのように変貌してきたかを描いた書。
岩手県北上山地の安家地区における、江戸時代後半から現代に至るまでの、産業構造を明らかにした書。
対象地区は『むらの生活誌』に近接する。
前半はキリスト教の禁教の経緯、後半は民衆と寺社の関わりについての具体例を示した書だが、前半部分と後半部分とがどのような論理的脈絡でつながっているのか、よくわからなかった。
大峰山脈は、修験道の聖地である。
修験道の理論はおおむね、密教に依存しており、密教の諸仏が修験の神々である。
民俗学の視点から日本列島の多様性について論じた書。
列島のある時期に、焼畑農耕文化と稲作農耕文化が接触し、結果的に国家を形成したのは稲作民だったが、非稲作民の精神構造まで征服できたわけではなかったと説く。
神道とはどのような信仰かについての概説書。
新釈とあるが、遠野物語のパロディではなく、岩手県釜石周辺における、創作奇譚集である。
正体不明の老人が、青年に奇想天外な物語を、あたかも事実であるかのように語ってみせるのだが、最後は、その老人が化けた狐だったという井上作品らしいオチがついている。
民俗学は、どのような生活や行事がかつて存在したかを記録する学問かと思っていた。
力点はいかに詳細に記録するかにあるという印象があり、学としては、記録された内容の意味をほとんど問わないのかと思っていた。
そんな見方は偏見であり、そういう浅はかな考えを持ったことは失策だったと思っている。
深田久弥の「日本百名山」には、今となっては名山の名に恥じる山も含まれているが、両神山は、文句なしの名山である。
小鹿野町と両神村が合併したとき、町の名を「両神町」にしなかったのは迂闊だったと思う。
秋山郷の木鉢製作だけでなく、秋山郷の暮らし全般についても記されているので、興味深い。
民俗学や歴史学で、サンカを正面から取り上げた研究をあまり見ない。
自分自身、サンカと呼ばれる人々が存在したらしいことを知ってはいたが、書店に並んでいる関連書籍をパラパラ見ても、どれだけ確実な研究なのか怪しい印象があって、読んでみようという気にならないでいた。
三峯神社の宮司さんが書いたエッセイ。
神社本庁の役員などもされている方なので、本文の中には、「神ながらの道」とか、ちょっと近寄りがたい言辞も並んでいる。
わらの民俗に関する聞き書き。
子ども向けに書かれたと思われる、役の行者伝。
数多ある役の行者の伝記・伝説類を博捜し、役の行者の実像に迫ろうとした書。
とはいえ、行者伝の中で信頼に足りそうなのは、『続日本紀』にある、彼が伊豆に流刑となったという記事だけである。
幕末期に、はかりしれないポテンシャルを持つ、いくつかの宗教が誕生した。
如来教・黒住教・金光教・天理教・大本教・丸山教などである。
ポテンシャルとは、人間のあるべき姿を追求し、社会のあるべき姿を真正面から追求するパワーを意味する。
円空が無学で無思想な凡僧だったと主張する本。
ほとんどすべての行に、著者の思い込み・無知・無理解が溢れかえっていて、じつに辟易する。
当然だが、読むことをお勧めしない。
円空の生涯を、作品・史料に即して描いた評伝。
円空が「まつばり子」(私子)で、幼い時に母を亡くしたという口碑を事実とする前提で、それをキーとして円空の生涯を解いている。
さらりと書かれた日本民俗学史。
別の読書ノートにも書いたが、学生時代に、民俗学の講座を受講しなかったのは全くの失策だったと思う。
修験道の歴史についてのかなり詳しい解釈書。
わかりやすい本だが、修験道を教義と捉える見方への疑問が強くなっているので、随所に違和感を感じながら読んだ。
千日回峰行とは、比叡山における修行の一つで、百日連続して、決められたコースを礼拝するという修行を都合1000回行うというものである。
修験道の教義をわかりやすく説いた書物を探しているのだが、なかなか見つからない。
この本を読んでみても、うなづける点はもちろん、多々あるのだが、目からウロコというわけにはいかない。
富士講六世の行者、食行身禄の伝記小説。
洞川周辺の食や大峰の植物などについての覚え書きを記した書。
荒唐無稽だったり、言行不一致だったりすることが多いような気がして、宗教者の説法は、嘘っぽく聞こえる。
これは、説法に限らない。学校の先生のお説教など、その最たるものであり、自分自身、他人のことなど言えた義理ではない。
民俗学の巨人の自伝。
学問の目的や方法について、本質的なことを明確に語っている。
若いときにこの本に出会っていれば、勉強の仕方が変わっていただろうが、その当時、本書で語られていることを理解できたかどうかは、疑わしい。
合理的精神・国民国家・近代化・科学の進歩などの範疇を丹念に検討し、その限界性を指摘し続けている著者による、歴史哲学論。
1201年秋に行われた後鳥羽院の熊野詣りに同行した藤原定家の『熊野御幸記』の記述をもとに、定家の道中を追体験させてくれる本。
秩父事件に関する著者の話を何度かうかがったことがある。
演説口調とは対極の静かな語り口ながら、事件関連の同氏の著作にあるように、地を這うような調査が印象的だった。
熊野街道は、熊野三山に至るルートです。
主たる道は、大和からの小辺地・奥駈道、紀州からの中辺地・大辺地道と伊勢道の5ルート。
本書は、このルートの各所にまつわる史実や伝説、人物などを短く語ったアンソロジー。
前の読書ノートに関連する小冊子で、明治から現在に至るまでの、秩父地方の木地師たちの足跡を、主として聞き書きによって、明らかにしています。
発刊されてからずいぶん長く読まれている本です。
現在の日本では、山村や農村で生活することは、人にとって、ハンディのひとつと考えられていると思われます。