『美は乱調にあり』の続編。
日陰茶屋事件以後、甘粕正彦らによって虐殺されるまでの伊藤野枝を描いている。
近代日本における反権力運動は、自由民権運動が一つのピークだった。
「自由」を渇望し、その実現のために若者たちが命を賭した。
生活に根ざした闘争もあれば、裕福な知識人による観念的な闘争もあったが、それらに優劣はつけられない。
明治17年以降、三大事件建白運動の高揚があったものの、民権運動自体は、収束に向かったと思っている。
初期議会以降も旧民権派の闘いは続いたという考え方もあるが、反民主主義・反人権・対外侵略を基調とする明治憲法の枠組み自体を根本的に否定する主張は、あらわれなかった。
自由民権運動以来の反権力運動を継承したのは、初期社会主義だったと思う。
明治末の社会主義は、欧米諸国と同様、人間の根本的な解放を実現する思想として、知識人に受けとめられた。
人間解放と明治憲法は両立し得ないから、社会主義思想は、反権力運動たらざるを得なかった。
それがわかっていたから、政府は最初から、社会主義思想を絶対に許容しない姿勢をとった。
大逆事件というフレームアップは、そのような流れで理解される。
大正デモクラシーの主流となった思想は反権力的でなかったが、同時代に、社会主義思想も展開した。
大逆事件やその後の弾圧は苛酷だったが、人間解放をめざす魅力的な理論が他に見当たらない以上、社会主義思想は受け入れられた。
自由民権運動の場合もそうだったが、解放思想を最初に受け入れ、その伝道師となるのは、知識人だった。
社会主義思想においても、マルクス・エンゲルス以来、そのことは変わらない。
マルクスらは単なる伝道師にとどまらず、革命の実践家でもあった。
理論は、実践の中で検証され、新たな理論的高みへと鍛えあげられる。
これは、いかなる運動においても通用する基本である。
アナキスト大杉栄は、魅力的な人物だったが、手探りながら労働運動との連携を始めたばかりで、人間が解放される道筋について、理論的な見通しを持っていたわけではない。
ロシア革命が実現し、共産党の組織化が日程にのぼり始めたが、日本のコミュニズム運動の理論はまだ幼稚で、一人で歩ける状態ではなかった。
伊藤野枝は殺害された当時、彼女なりの思想というようなものを形成する途上にあり、国家権力にとって有害と思われるような人物ではなかった。
そんな彼女が甥の橘少年とともに虐殺されたのは痛ましい。
下手人の甘粕がわずか三年足らずで出獄し、日本の満州支配の黒幕として活動した。
じつにいきどおろしいことである。