近世から近代初頭にかけての会津地方の農民闘争を概説している。
一読して、会津地方の支配の苛酷さが印象に残る。
会津は基本的に、会津盆地周辺の水田地帯が会津領で、南会津の山間部が幕領(御蔵入領)である。
そのいずれも、支配は苛烈だった。
百姓の生活のきびしさは、自然条件によるより、年貢の重さと支配の巧妙さによっていた。
関東の農山村では、村ごとに数名の名主がおかれ、大村に限って割役がおかれたが、割役とて、支配機構の末端としてあまりに大きな権力を持つわけではなかったと思われる。
会津の郷頭は、領主・代官の権力そのものとして村役人の上に立ち、特権的な私益を享受していた。
百姓は、領主・代官と闘う以前に、郷頭権力と闘わねばならなかった。
秩父地方でも一揆が起きているが、代表越訴的な一揆だった竹木刈り取り訴訟の場合も、代表名主は所払いの処分で済み、しかもいつの間にか大宮郷に立ち戻っている。
天明の打ちこわしの際には処罰された人がいるかどうかも、よくわからない。
山国秩父の生活条件がきびしかったのは事実としても、事情を訴えれば、忍藩領でも天領・旗本領でも、おおむね話は聞いてもらえる状態だったと思われる。
水戸といい会津といい、親藩は経済的にラクでないから、苛烈な支配だったのかもしれない。
そのようなわけで、会津の一揆は、多くの犠牲者を出している。
これらの一揆指導者たちが顕彰されるべきは当然である。