哲学者のエッセイ集。
一つのテーマについて深く追求したような本でなく、悪く言えば雑文集なのだが、ところどころにああそうなんだ、と思わせられるような記述がある。
たとえば著者は、「自分がひとりの生活者として切実な問題と感じないではいられない問題こそ、同時にまた哲学者にとっても切実な問題でなければならない」という。
ここでいう「哲学者」は、何かを学問的に学ぼうとするものと言い換えられる。
学問は飯の種でなく、人が生活者として生きるために、よりよい生き方のために必要なものでなければならない、ということだろう。
この歳になってようやく、そんな一文に感心するなんて、恥ずかしい限りだが、それが事実。
社会運動の中でしばしば使われる「統一」について、著者は、「もともと『統一』というのは『雑多なものの統一』なのであって、あらゆるこまかい点にいたるまで一色にぬりつぶされた『画一』とはちがう」「『統一化』ということを、その過程のなかで相互の討論や批判の力によって意見の相違を克服していくダイナミックな過程として理解しなければなりません」と述べている。
「統一」の弁証法的な理解とは、このようなことなのだろう。
ところで、このところ、「市民」とか「市民運動」とは何なのかについて、気になっている。
著者は、「公害に直接に反対するとき、労働者にせよ、学生にせよ、主婦にせよ、その人びとの資格としては、「市民」の資格において参加しているといえましょう。その意味では、それらを一般に「市民運動」とよんでいいだろうとおもいます」と述べられている。
例えば労働運動は、労働者の労働条件や経済的状況を改善することを目的とする。日本の場合、その職場特有の問題への取り組みがメインとなる。
それに対し、職場や狭い地域以外の社会的な諸課題に、一人の自立した人間として関わろうとするのが市民だと、著者は考えておられるようだ。
このことについては、さらに考えたい。