議論の仕方を論じた本でなく、極端かつ原理主義的な言説を批判する本。
揶揄や中傷はもちろん、批判とは言えない。
しかし、一定正当性のある議論であっても、それが多くの人々にとって現実的に受け入れがたかったり、実現不可能であるような議論を、単に「言う」ために言う議論は、意味がない。
2026年の現在において、資本主義を終わらせるという言説を熱心に説いている政党の指導者がいるが、その話を現実的と受け止める人は、誰もいないだろう。
そんな話は、記紀神話を事実だと主張するのと同程度の妄想である。
この本で批判されているのは、それよりもう少しリアルな極論である。
著者は具体例として、エネルギー問題・外国人労働者問題・歴史認識問題などに関する議論を分析されている。
たしかに、これらのテーマについて、原則論的な言説を述べるのは、さほど難しくない。
しかし、必要とされているのは現実的な解決策ではないか、というのが著者の立場である。
著者はここで、これらの難問に対する解を提示されている。
それらはもっとも多くの人に納得可能な議論である。
しかし、原則的な議論を重視する立場からは、日和見的な言説と見えるだろう。
そこをもう少し考えてみる。
原則論はもちろん、無意味ではない。
それが惰性による議論でなければの話だが。
しかし多くの場合、原則論は何をも解決しない。
それどころか、現実を少しでも改善することにほとんど役立たない。
単純な原則論は、「言ってやった」「自分たちだけが正論を吐いた」ということのアリバイにしか、ならない。
ケーススタディの中で著者が述べられている「メタ正義論」がどこまで正しいのかについては、検討の必要があろう。
しかし、議論を一歩でも進め、なにがしかの前進を探る問題提起には、十分なりうる話だと思う。
混沌たる世界の現実において、何が必要と考えるか。
一歩の前進に意義を見いだせるかどうかという観点から考える思考方法を、身につけたほうがよいのではないかという提起には、十分意味があると思える。