職場においても、運動の中でも、意見の相違は当然、しばしばおきる。
今まで経験した中でわかるのは、いかなる意見にも一定の正当性が存在するということである。
もちろん、言ってることがほぼ無茶苦茶で正当性のほとんどない意見もあるのだが、それは正当性の相対的な割合を示すものと考えるべきである。
持論のうち、正当性のない部分について、論者がどのように語るのかは、その論をどのように受け止めるべきかという点で、重要になる。
近年、体験した論者で多く見られたのは、自論に有利な論拠を列挙しはするが、不利となるとおぼしき論拠については、その論拠の存在自体を無視するというものだった。
自論に有利な論拠のみにより論を立てるとすれば、それは論ではなく、妄想でしかない。
妄想につきあう暇は、自分にはない。
本書の「強弁術」「詭弁術」に関する記述は、自己の論を展開するうえで、よい戒めとなる。
一方、本書後半の「論理のあそび」には、けっこう苦しんだ。
苦しんだ原因が、自分が論理的思考を極めて苦手としているからだということは、よくわかった。
この「あそび」については、ときおり、読み返したほうがよいと思う。