広中一成『牟田口廉也』

 愚将・牟田口廉也がどのように育ち、十五年戦争においてどのような役割を果たしてきたかを描いている。

 士官学校・陸大時代は、特に目立った成績をあげられていたわけではなさそうだ。
 とはいえ、士官学校・陸大に合格したわけだから、勉強ができないはずはなかっただろう。

 本書では、盧溝橋事件・シンガポール攻略、そして牟田口の軍人人生の集大成と言うべき、インパール作戦における、彼の言動を検証している。

 盧溝橋事件については、いわゆる「一発の銃声」によりただちに全面戦争が始まったかのような印象があるが、実際には、日中両軍により停戦に向けた交渉が断続していた。
 停戦協議が行われている中で、日中双方による挑発的な攻撃も起きた。

 両軍の小競り合いが起きる一方、交渉により停戦協定が成立した。
 しかし、小競り合い(日本軍にとっては中国軍による挑発と受け止められる)をきっかけに、支那歩兵連隊第一連隊長の牟田口が攻撃命令を発したため、戦争が拡大し、全面戦争に発展した。
 牟田口の攻撃命令は独断によるものだったが、支那駐屯歩兵旅団長の河辺正三がそれを容認し、さらに参謀本部も戦争拡大を支持した。
 こうして日中全面戦争が始まった。

 牟田口が日中戦争を始めたわけではない。
 日中戦争開始の責任は、戦争へ向かう流れを作った陸軍にある。
 一将校に過ぎなかった牟田口は、自分が日中全面戦争のきっかけを作ったことを、大きな「手柄」と考えていたらしい。
 自分の独断行動が咎められることなく、むしろ日中全面戦争という、歴史の大きな転換点の一つのピースだったことが、彼の誇りになったのだろう。

 強引な攻撃命令によって事態をこじらせ、さらに引き返し不可能な状況へと進んだわけだが、彼の行動が公的に批判されることはなかった。
 これが、インパール作戦の伏線になった。

 インパール作戦の無謀は、多くの著作により、明らかにされている。
 インパール作戦も、牟田口の発案・計画によったものでなく、東條参謀総長や大本営の参謀たちにより、原型が作られていたが、失敗不可避な計画なため、実現しなかったものである。
 新たな「手柄」を立てたかった牟田口は、実現不可能と指摘されたにも関わらず、その実行を軍上層に慫慂し、大本営も根拠なくそれを承認した。
 二万人の日本軍兵士に無惨な死を強制したのは、牟田口だけではなく、日本陸軍そのものだった。

(ISBN978-4-06-512728-5 C0236 \1050E 2018,7 星海社新書 2025,8,10 読了)

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