五木寛之『一向一揆共和国 まほろばの闇』

 越前・加賀と大和への歴史紀行。
 小野十三郎氏のように乾いた文章で書くといいつつ、実際にはずいぶんウェットな文だと感じた。

 ここでは、越前・加賀の一向一揆に関する叙述に感じたことを記しておく。

 著者の受け止めでは、一向一揆とは信仰を核とした百性による闘いであるとされている。
 しかし、ほんとにそうか。

 進めば極楽、退けば地獄と信じて戦った門徒とは、純然たる信仰集団だったと言えるのか。
 門徒の組織に、逆らうことのできない支配-隷属関係は存在しなかったのか。

 室町時代末期は確かに、民衆の自律的な動きが躍動した時代だった。
 土一揆の組織については、あまりわかっていないが、山城国一揆では南山城の36人の国人衆による自治が行われた。

 ここで注意すべきは、「国人」(在地土豪)と「土民」(一般民衆)とは別個に行動しており、「自治」を行ったのは国人のみらしいということである。
 南山城の国人・百姓は、両畠山氏と敵対関係にあり、両畠山氏を南山城から追放したのだが、実際に権力を握っていたのは国人だった。
 国人と百姓は、やはり支配-被支配の関係にあり、両集団に共通の利害もあったが、対立する部分もあったはずだ。

 越前・加賀においても、本願寺の系列の坊主たちが在地土豪同様の権力を持っていたはずで、一般門徒たちが「自治」に参画する余地はなかったのではないか。
 著者は、一向門徒として一括されているが、坊主は在地の支配者で、門徒は坊主に逆らえない関係があったというべきではないか。
 自治というなら、門徒が坊主を追放して民衆自治が行われてこそ、真に「百姓の持ちたる国」になり得たはずだ。

 蓮如は守護との争いを戒めた。
 多くは蓮如の息子や親族だった門徒たちは、場合により加賀の守護・富樫氏にさえ、味方した。

 一向宗は、民衆の立場になど、立っていない。
 それが今の時点での自分の理解だ。
 これからもっと学習すれば、その認識は覆るかもしれないが。

(ISBN978-4-480-43174-5 C0121 \780E 2014,7 ちくま文庫 2025,5,31 読了)

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