1960年にプラハで過ごした著者の小学校時代の思い出と、同級生との再会記。
日本の子どもがプラハのソ連大使館付属小学校に通うという状況は、一般的には考えられない。
クラスメートはほぼ全て、世界各国の共産党の幹部の子どもたちである。
著者がこの学校に通っていた1960年から1964年という時期は、各国共産党の苦悩が明らかになった時期でもあった。
学校を運営するソ連と対立を深めていた中国などの子どもたちにとっては、居心地がよくなかっただろうと思われる。
日本共産党とソ連共産党の関係もまた、極めてまずい状況であったのだが、それら政治的状況と、小学生同士の人間関係が連動してしまうのは、ちょっと胸が痛む。
プラハといえば、著者がその町を去ったわずか四年後に、ソ連軍が侵攻して民族の自決と民主主義を蹂躙し、それまである程度存在した国際共産主義運動への期待感を、木っ端微塵に打ち砕いた、その町ではないか。
子ども同士の人間関係とは、日々エキサイティングなのだろうと思う。
高校生同士の日常会話を毎日聞いていたころ、この会話を文章に起こしてみると、小説の一場面に使えるよな、と思ったことがしょっちゅうあった。
しかし子ども時代のエキサイティングな日々の記憶は、おとなになれば少しずつ薄れていく。
おとなの世界はまことに陳腐で、やがて言葉というより、記号の中で生きてるような世界となる。
子ども時代の言葉を蘇らせることができた著者の感性に脱帽するしかない。
しかもそれが、今となっては忘れ去られた、国際共産主義運動の激動の中でのメルヘンで、社会主義体制が崩壊したのちの再会記なのだから、興味は限りない。