松永智子『米原昶の革命』

 鳥取県出身の共産党のもと代議士の評伝。

 生家は山林地主で、運送会社・新聞社・百貨店などを経営する実業家。父親は貴族院の多額納税議員。
 昭和初期に、そのような境遇の若い人ががマルクス主義に近づく例は多々存在した。

 しかし、マルクス主義・自由主義に対する苛烈な弾圧の時代だったから、多くのシンパのみならず、最高幹部さえが続々と転向し、1930年代後半に共産党は壊滅し、ついで左翼的な運動・民主主義運動もほぼ消滅した。

 米原は党員ではなかったが、非合法の共産党シンパとして活動していた。1930年以降、地下に潜る。
 地下に潜るとは、変名を使い、家族や一般の友人との連絡を絶ち、正体を隠して生きることである。
 もちろん、実名を名乗る必要がある職業に就くことも、住むところを借りることもできないから、理解者の好意により生き続けるしかない。
 秩父事件で言えば、井上伝蔵や島崎嘉四郎らが、そのような人生を送った。

 本書には、地下生活時代に米原を支えた人びとが紹介されているが、米原自身もそれについてはほとんど語っておらず、詳細なその実態はわからない。
 また党員ではなく、指名手配されていたわけでもなかったし、共産党自体壊滅して組織的な活動は行われていなかった。
 そんな中、彼が地下生活を続けたのは、マルクス主義に対する信念があったからと思われる。

 米原の本格的な活動は、戦後になってからだった。
 1949年の総選挙で鳥取県から出馬して当選。このとき共産党は、大躍進して35議席を獲得した。
 その後、共産党は路線対立により分裂し、混迷状態に陥る。

 1960年代末に東京選出の代議士となるまでも米原は、おおむね党の一幹部として与えられた任務を遂行していたように見える。
 50年代末から60年代初頭にかけて、党代表としてのチェコ駐在も経験しているが、党代表とはいかなる任務だったのかについて、詳しい掘り下げはされていない。
 日本共産党の路線自体がようやく固まりつつあったとはいえ、国際的な共産主義運動は激しく混迷していた時代だから、もっと知りたいと思う。

 米原の人柄等については、とてもよく描かれているとは思う。
 ただ、校正ミスと思われる部分が散見される(鍋「島」貞親など)のはやや残念だった。

(ISBN978-4-422-30112-9 C0336 \2700E 2025,2 創元社 2025,3,15 読了)

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