14世紀イギリスでおきたワット・タイラーの乱のイデオローグといわれるジョン・ボールと、19世紀イギリスの社会主義者、ウィリアム・モリスとの対話。もちろん、モリスの創作である。
ワット・タイラーの乱について無知なのだが、減税と農奴制の廃止などが、主たる要求だったと言われる。
モリスは、ボールらが自由を求めて戦ったと受け止めている。自由の中身についてはもちろん、近代的な自由と、内容は異なっていなければならないが、ここではとりあえず大きな問題ではない。
なぜか反乱軍に合流してしまった著者(モリス)は、ひと合戦を体験したのち、夜を徹してボールと語り合う。
本書のかなりの部分は、モリスとボールの対話である。
本書のハイライトは二つある。
一つは、武装蜂起した人々を前にした、ジョン・ボールの演説である。
これがいったい、なんのための戦いなのか。
ここでボールは、仲間たちとの連帯の重要さを説く。
ここで語られているのはボールの言葉ではなく、モリスの言葉であるが、読んでいる自分に浮かんでくるのは、戦いの意味を仲間に語る、田代栄介の表情である。
「仲間との連帯の中で、仲間の連帯のために身体をはって事にあたる者は、今日挫折したかに見えても、実はそうではない。来たるべき日には、彼と彼のおこないは生き続け、人々がふたたびみたび戦うときの支えとなろう」
このような言葉を栄介に届けたい。
対話の後半は、この戦いのあと、社会はどうなるのかが語られる。
農奴制廃止ののちに来たる社会(近代社会)に楽観することはできず、搾取もイデオロギー支配もむしろ強化されるというモリスの説明もちろん、資本主義社会の惨状を知りえないボールに、それは理解できない。
小説として、ここは展開にちょっとに無理があると言わざるを得ない。
しかし、歴史とはどのようなものかを考えるとき、とても示唆的だ。
封建制から近代社会への流れの中で、自由が拡大する。また、個という存在が初めて明確に意識される。
近代が人類にもたらした、もっとも大きな福は、そこである。
モリスが、またマルクスが言うように、近代によってもたらされたのは福だけではない。
近代になってより複雑で見えにくくもなった禍と闘う力は、民衆の連帯によってしか、作り出すことはできない。
秩父事件から学ぶものも、その点なのである。