1945年8月5日に浅川駅(現・高尾駅)と与瀬駅(現・相模湖駅)間の中央本線・湯の花トンネル東側で、新宿発長野行き普通列車が、アメリカ軍のP51戦闘機による機銃掃射を受け、約50人の犠牲者を出した戦災に関する、詳細な調査記録。
1944年7月のサイパン玉砕により、日本列島はB29の日帰り爆撃圏内に入り、全土が空襲に見舞われるようになった。
1945年2月以降、アメリカ軍機による空襲は質的に変化した。
B29による大規模空襲が引き続き行われると同時に、空母から飛び立つ艦載の攻撃機が、特定の工場や公共交通・個々の人間に、機銃攻撃や小型爆弾を投下するピンポイント攻撃が行われるようになった。
1945年3月に硫黄島が玉砕したのち、同島に大量のP51が配備され、そのような小規模空襲に従事した。
P51は、空爆をもっぱらにする機種でなく、戦闘機として空中における格闘を主な目的としており、零戦の時速500キロを上回る時速570キロで飛ぶことができた。
航続距離は約3000キロ強、東京・硫黄島間が往復で2500キロ程度だったから、関東圏は同機による空襲圏内に入り、空襲の恐怖は大都会に限られなくなり、どこでピンポイント空襲があってもおかしくなくなった。
8月5日、P51は、三つのグループに分かれて、関東地方に来襲した。
第一グループは相模湾から侵入して川越・所沢を回り、相模湾から戻っていった。中央本線を銃撃したのは、この一部だった。
第二グループは、九十九里から入って埼玉県内を飛んだ。このグループは秩父へも来襲したが、銃撃は行っていないようだ。
第三グループは銚子から入って千葉県内を銃撃した。
第一グループはまず、小田原駅・早川駅・下曽我駅・松田駅・国府津駅など東海道線・御殿場線を銃撃したあと、東京の多摩地方・埼玉県に向かったのだが、その一部が八王子に来襲し、さらに湯の花トンネル手前で、普通列車を襲ったという。
戦争末期には、鉄道輸送も逼迫しており、乗車券の購入も容易でなく、乗車ドアからだけでなく、窓から突入しなければ乗れないほどの超混雑ぶりだった。
416列車は電気機関車が8両の客車を牽引していたが、湯の花トンネル手前で列車を見つけた数機のP51は、トンネルのすぐ南、蛇滝のある沢の方から急降下し、銃撃を加えた。
列車が停まったのは、運転していた機関士が非常ブレーキをかけたためだが、銃撃により架線が切られて動けなくなったのも、もう一つの要因だった。
結果的に、機関車と一両目及び二両目の半分ほどがトンネルに入った状態で、この列車は、数次に及ぶ銃撃によって蜂の巣状態となり、車内は生き地獄と化した。
氏名の判明している犠牲者は49名だが、混乱の中で氏名もわからない犠牲者もいる。
遺体は、現場近くの民家の庭に並べられていたが、傷みが激しかったため、日影沢の平坦地でまとめて荼毘に付されたが、燃料が乏しく、完全に燃やしきれずに一部はその場に埋められたという。
東京・大阪などの大空襲や広島・長崎の原爆投下もさることながら、まさに凄惨極まりない戦災だった。
著者は感想を述べておられないが、敵機が去ったあと、負傷者の救護にあたって、軍人が「兵隊が先だっ」と怒鳴り、軍の自動車が軍人乗客を優先的に輸送したとか、一般市民も診療するはずだった立川陸軍病院では軍人以外の入院が拒否された(手当てはしてもらえた)り、「女の人は陸軍病院にはいられない」と言われた女性の証言を記録している。