明治一七年一一月一日に蜂起した秩父困民党に対し、国家は、軍と警察による鎮圧を敢行した。
一方、地域住民の中にも、困民党に敵対する動きが存在した。
地域の中でおおむね自主的に困民党に敵対しようとした動きについて、全面的な事例紹介と分析を試みた書。
困民党の思想についての研究と比較して、自警団の組織や思想に関する研究は大きく立ち遅れていたと言える。
著者が何度も言われるように、武州一揆の際に、秩父において世直し勢と対峙したのは、忍藩陣屋などの幕藩権力ではなく、大宮郷を中心とする自警団であった。
自警団は常設の部隊ではなく、世直し一揆という非常事態において急きょ編成された兵力だったと思われるが、秩父における世直し一揆壊滅に、決定的な役割を果たした。
武州一揆は、コメの安売り要求に端を発して豪農を打ち壊したのだが、当然にことながら、打ち壊される側にとっては迷惑である。
打ち壊しをかけた世直し勢にも言い分はあったが、それを筋道立てて説明できる指導者はもちろん、いなかった。
世直し一揆は、昔の言い方で言えば、半プロ層の怒りの爆発という側面が大きかったから、貧しくない村落支配層に共感できる部分は少なかっただろう。
幕末とはいえ、これら豪農の多くは村役人を兼ねていたと思われるから、村落支配層にとって世直しは「悪」と認識された可能性が高い。
世直しは基本的に、百姓身分同士の対立が原因だった。
秩父事件の場合、自由民権思想(自由党)が介在したことによって、対立軸が、民衆同士(困民対高利貸)だけでなく、すべての人にとってそうだというわけではないが、民衆対国家の構図になった。
自警団の人々はおそらく、自由党にも関係せず、生活が苦しくもなかったのだろう。
事件後の褒賞を意識したかどうか、詳らかでない。
著者が関東大震災当時の自警団に言及されている点は、とても重要だと思う。
地域の治安を乱す恐れがあると思料される人間を抹殺する行為は、その正当性が証明されたかどうかにかかわらず、権力(メディアや一般住民を含む)によって正当化され、場合によっては称賛された。
秩父困民党と対決した自警団出動の動機は、なんだったのだろうか。
それを語る史料はほとんどない。
自警団と困民党が真正面から衝突したのは、魚尾村・川中の戦いだけだ。
自警団側・困民党側それぞれの意識など、史料があれば、分析してみたい。
そういえば、陸軍(鎮台兵・憲兵隊)側の意識を語る史料も、見たことがない。
秩父事件の全体像を知るうえでも、官側・自警団側の思想にも、目配りが必要だろう。