考古学的知見によって、列島における国家成立の様相を明快に叙述している。
文献史料は、書かれた時点で、何らかの意図がその中にこめられている。
歴史は、文献史料によって書かれることが多いのだが、その史料が作られた背景を理解しないと、真実に至ることはできない。
その点、考古史料には、記録することへの意図が存在しない。(石碑等の金石史料には意図が存在する)
だから、著者の言われることには説得力がある。
本書は、弥生時代から律令制時代初期までを扱っている。
三世紀後半の弥生時代までは、国家の形成が進行する過程だったとする。
ここでは、リーダーをいただく集落が作られ、さらにそれら集落間での戦いが発生する。
戦いの過程で集落はある程度の規模を持つまとまりへと統合されるが、それが『漢書』にいう「国」である。
戦いがさらに進行して、東日本以遠に数個のブロックが形成されたと著者は言われる。この戦いが、『魏志倭人伝』にいう「倭国大乱」に相当する。
その想定から、著者は邪馬台国の所在地は大和であると考えられており、邪馬台国と激しく争った狗奴国は東海地方あたりをテリトリーとした別のブロックとされる。
邪馬台国時代が弥生時代の最終末で、列島西部は、邪馬台国を頂点とする部族同盟(未だ「国家としての実態を備えていない)に収束された。
邪馬台国は身分制度と萌芽的な官僚機構を持っていたが、列島西半を直接支配していたわけではなく、部族同盟の中核的存在に過ぎず、各部族の自立性は尊重された。
四世紀に列島の統合が進んだことが、倭王武の上表文に記されている。
前方後円墳というイデオロギーが東日本にまで浸透したことが、その考古学的根拠である。
著者はこの時期を「初期国家」と呼ばれている。
政権の中核は大王と呼ばれる権力者で、奈良盆地政権は河内政権へと権力移動がおきた。
奈良盆地政権と河内政権の関係については、今のところ不詳だが、奈良盆地政権と友好関係を築いていた地方政権においても、権力交替が観察される。
倭王珍や済が宋の皇帝に対し、自分だけでなく自分以外の人物への叙任を願ったのは、政権がいまだ有力首長による連合体だったことを意味する。
しかし、武は自分のみの叙任を要求しており(興は叙任申請していない)、連合政権の中で唯一の存在だったことが推察される。
また、稲荷山古墳鉄剣銘文はワカタケル(武に比定される)の官僚が北武蔵の在地首長となった(もしくは在地首長がワカタケルの官僚となった)ことを意味しており、大王への権力集中が進んだことがうかがえる。
しかし、急進的な権力集中には抵抗が起きた。
五世紀末の吉備の反乱は、その流れにあったし、武死後の記紀の記述があやふやになるのは、混乱が収束しきれなかったからだろう。
継体が倭の五王政権と全く別の出自であることは、ほぼ定説と言っていい。
筑紫の磐井は継体が大王であることを認めなかったのだろうが、そのことは大王権力が列島西部を支配しきれておらず、依然として連合政権だったことを意味する。
しかし、この時代が列島国家形成の直前準備期間ではあった。
六世紀以降、巨大な前方後円墳は西日本では消滅に向かうが、関東ではむしろ増加する。
それは、関東の首長の支配権が温存されていたと説明されるのだが、自分的にはそれだけでは納得し難く、もっと合理的に説明できないものかと思う。
また同じ時期に、秩父地方では多くの群集墳が築かれる。
破壊された古墳も多いはずだから、秩父盆地に小集落が点在したことは間違いないだろうが、そこに身分関係は存在したのか、また北武蔵権力との関係はどうだったのかについては全く不詳で、考古学的研究も進んでいない。
著者は、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥時代をもって古代国家の成立とされる。
「日本」の国号が闡明されたのもこの時代である。