西南戦争の全体像をわかりやすく語る好著。
西南戦争が内戦だったことをまず、押さえなければならない。
戊辰戦争は、明治維新の扉を開いた内戦だったのだが、新政府は、富国強兵に向けて、体制を固めつつあった。
それに対し、二つの反対派が形成された。
一つは、維新改革により各種の特権を失った不平士族たちである。
佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱という、一連の反乱はごく小規模で、短期間のうちに鎮圧された。
彼らの不満は、基本的に旧武士階級に与えられていた特権(俸禄や帯刀など)が否定されることへの怒りにあったから、それは所詮、「不平」だという捉え方をされている。
もっとも、さらにきちんと分析すれば、より積極的な意味のある戦いだったかもしれず、その点は学習不足である。
西南戦争を最後にして最大の士族反乱と捉えると、本質的には、西郷ら指導者は、不平士族の頭目に過ぎないということになる。
本書は、反乱軍は最初から最後まで、戦いの大義名分を示すことはできなかったと述べている。
西郷周辺の好戦的な幹部たちの思想が今ひとつわからない。
この内戦が、不平士族反乱の一つにすぎず、幹部たちは中央集権化や武士特権の否定へ反感をつのらせのだとすれば、日本近代史における反動的な反乱でしかない。
本書によれば、藩閥専制政府を武力によって変革しようとする人々が、西郷らの挙兵にいわば便乗するかたちで加わったケースも多々あり、その中には自由民権派のグループも含まれていたという。
そのあたりが、西南戦争の意味をわかりにくくさせている。
土佐の民権派の中には西郷に呼応する形での挙兵を模索する動きもあったが、板垣退助は、西郷軍への合流はっきりと否定し、言論戦による政治変革の路線を明確にした。
挙兵の旗頭であるにも拘らず、西郷本人はほとんど何も語っていない。
それがこの内戦の意味をわかりにくくさせている。
このように、西郷軍は一枚岩ではなかったが、指導部及び実働部隊は戦争のプロだったため、政府軍にとって、楽な戦いではなかった。
そのあたりは、まったくの素人部隊だった秩父困民軍とは異なっており、政府は全力で鎮圧にあたり、八ヶ月かかって政府軍が勝利した。
裁判が、いかなる法律に基づいて行われたのか、書いてないのでよくわからないが、首謀者と参謀クラス22名がが斬罪、大隊長級31名が懲役10年・・とある。
「賊軍」と呼ばれた反乱軍の大隊長級が懲役10年なら、さほど重くない印象がある。
さらに明治22年、西郷は罪を精算され、名誉を回復されるとともに、正三位の位階を与えられた。
著者は、「反逆の英雄を「官」の枠組みに回収した」と評しているが、これにより、西郷隆盛は晴れて、藩閥専制政府の一員に復帰できたのである。