講座派の論客・服部之総氏の自由民権論。
収録論文は戦後まもなくに執筆されたものばかりなので、事実関係などは正確と限らない。
講座派的視点といっても、平野義太郎氏とはかなりニュアンスを異にする部分も多く、興味深い。
本書の諸論考が平野氏と決定的に異なるのは、これらが執筆されたのは戦前ではなく、戦後だということだろう。
戦前と戦後では執筆に関する自由度だけでなく、接することができる史料の質と量の桁が違う。
戦後になると、自由党に関してだけでなく、激化事件に関する史料も提供され、事件の全体像がほぼ明らかになってきた。
そういうなかで本書は、ワッパ事件・福島事件について、かなり詳細に分析されている。
秩父事件を含む負債民衆騒擾について、「近代日本成立期特有の民衆運動であった」という評価を目にすることがあって、それは果たして歴史においていかなる位置づけにあることを意味するのだろうかと、疑問に思うことがある。
「一向一揆は封建時代の民衆運動だから秩父事件とは異なるものである」と言ったところで、それは、アタリマエのことを言っているに過ぎないからである。
秩父事件を含む自由民権運動がが世界史の中のどこに位置づけられるのかという巨大な設題に、史料的制約という致命的困難をものともせずに取り組んでいかれたのが、昭和のマルクス主義歴史家だったと思う。
以下のような言い方を読むと、明治初年が世界史的に見て、どのような時代だったのかが、はっかりわかる。
「主体」は同一のブルジョアジーでも、二つの場合では同盟者がちがう。騎士を同盟者として選んだとき、ブルジョアジーは絶対王政の形成過程に重要な一役を演じているが、封建制打倒のための戦列に先導しているのではなく、したがってなんらのブルジョア革命、なんらの民主主義革命でもそれはない。農民を同盟者として選んだとき、ブルジョアジーはその絶対主義権力の打倒の戦列についているのであり、封建制打倒ということを内容とする民主主義革命が、ブルジョア革命と呼ばれるゆえんである。時代像の世界史的な位置づけに論及することを控えがちに見える近年の研究との違いは、専制そのものだった絶対主義に対する皮膚感覚的な怒りが立論の根底にあるかどうかなのではないかと思う。
本書所収の論考が書かれた時期(1950年前後)には、民権家ならその人物の経済的状況がどうであったかという点の数値的分析が、考察の基本におかれていたと思われる。
存在が意識を規定するというのは、一般論としては言えることであっても、個別具体例においては、必ずしも該当するとは限らない。
まして自由民権思想は人権思想に土台を持つ政治思想だから、特権階級だから人権を理解しないということにはならない。
服部氏は、民権運動が士族から豪農へと拡大していった背景を、西南戦争以来の不換紙幣の乱発による好景気が、国民的ブルジョアジーをして政治的に覚醒させ、運動の指導的立場に立たせたといわれる。
西南戦後インフレは、全国民的には肯定的に受け止められたということだろう。
この時代に、都市消費生活者の比率はまだ少なかったと思われるから、インフレは民衆の生活難に必ずしも結果しなかったのかもしれない。
民権派の憲法構想における立憲君主制の意味するところについても、服部氏は、留意すべき論点を出しておられる。
立憲君主制は、法制度の枠組みの中に君主を位置づけるものであり、制限選挙とはいえ、君主を立法院たる議会のコントロール下におこうとするものであり、実質的に共和制と変わるものではないという発想が民権派の中に存在したのではないかと、氏は言われる。
だから中江兆民は絶対主義憲法を一読して失笑し、ただちに憲法改正を提起しようとしたのである。
民権派は、それに呼応すべきだった。
自由民権運動が主敵としたのは、「藩閥」ではなく「専制」だったという視点を、失ってはいけないと思う。