幸徳秋水ほかによる、中江兆民の人物伝。
自由民権運動の行方について、ずっと考えている。
憲法の制定・国会の開設は、民権運動なしにはあり得なかった。
民権派が、憲法といい国会といい、いずれも自分たちが大きな犠牲を払い、命を賭してかちえたものだと述べるのは、決して言いすぎだとは思わない。
しかし、明治憲法制定後の日本が歩んだ道を肯定するわけにはいかない。
明治憲法体制は、国内民衆の多大なる犠牲と、東アジア民衆のさらに巨大な犠牲をもたらした。
そのことを肯定的に評価するのは、人でなしというほかない。
かつての民権派の誰が、民族的アイデンティティを前提とした東アジアとの連帯を主張しただろうか。
かつての民権派の誰が、国内の小作農・労働者その他の民衆の、貧困と非人権的な状況に異議を申し立てただろうか。
帝国議会において、かつて自由民権派だった「民党」が、政府と「吏党」に対し闘った事実は、諒としよう。
しかし彼らは闘う一方で、政府側としばしば妥協し、全体として、「支配者」の一員として存在していたのではなかったか。
そのことを糾弾し、闘う野党へと引き戻そうとしたのが、中江兆民だった。
とはいえ兆民も、「南海先生」同様、徹底的にに戦うことができたわけではなかった。
本書には、同志だった大石正巳の追悼文も収録されているが、大石は兆民を徹底的な愛国主義者として描き出している。
ナショナリズムは、国内の矛盾をを直視する眼を曇らせ、東アジア民衆の苦しみをおおい隠す格好の方便だった。
兆民なら、愛国より専制政府転覆が先だろうと言ったと思うが、大石にはそれが見えていない。
自由民権派の最良の部分、すなわち基本的人権の実現や民衆生活の向上などを、行動を持って実現しようとしたのは、幸徳ら社会主義者以外になかったという思いをさらに強くした。