自由民権運動に関連する井上清氏の史論集。
稲田雅洋氏の『自由民権運動の系譜』(吉川弘文館)は、民権運動を立憲政治実現をめざす運動と限定することによって、所期の目標を実現できたと前向きに評価することに成功した。
井上氏は、古い論文ではあるが、自由民権運動は敗北したと断言されている。
民権運動に携わった人びとにとって、稲田氏のような評価は、当然だと思われるだろう。
明治末年に、加波山事件参加者の名誉回復がなされたのも、民権運動を憲政の礎と位置づけたいと願うかつての活動家の意向を反映してのものだっただろう。
立憲政体が実現したものの、それがきわめて不十分なものだったことは、事実である。
国会開設ののち、かつての民権派志士の多くが政治家となった。
初期議会において、民党は一定の役割を果たした。
しかし、松方デフレ以降、全国的には寄生地主制が発達し、民衆の多くが小作農として呻吟にあえいだ。
自作地を失いたくない彼らの願いは、絶望的だった。
北海道と琉球は内国植民地化され、国内の少数民族はアイデンティティを否定され、台湾・朝鮮は植民地になった。
立憲政治が実現したのは事実だが、大日本帝国は、秩父困民党がめざした「自由な世界」「人民を安楽ならしむる」国家とは、似ても似つかぬ、藩閥時代と何ら変わらない圧制国家だった。
やはり、自由民権運動は敗北したのである。
ここにおいて、秩父困民党がめざしたような国家を実現する課題は、社会主義者によって担われることになったというほかない。
敗北はしたが、自由民権運動が残した大いなる遺産を学び尽くさねばならない、と井上氏は考えておられるようである。
中江兆民・植木枝盛といった理論家たちは、実践に多く携わりはしなかったが、現代人が想像する以上に多くのことを考えた。
板垣退助も、上級士族・軍人の出身でありながら、藩閥政治家とは一線を画した。
忘れてはいけないので、備忘のためにいくつかノートしておく。
「日本人のフランス革命観」という論考で井上氏は、ミニェの『フランス革命史』を、河津祐之が『仏国革命史』と題して翻訳したのは1878年だということを紹介されている。
「自由民権運動はこの書が出版されたころからますます盛んになり、士族出身を主とする知識人の運動から自作農民や都市の商人、特権をもたない小資本家たちの運動に広がり、まさに国民的な民主主義革命運動として発展しはじめた」という。
『仏国革命史』は、秩父困民党の軍用金集め方だった井出為吉の蔵書に含まれている。そして彼は、軍用金を拠出してくれた富豪に対し、「革命本部」名の領収証を手交している。
為吉の中で秩父事件は、目の前で進行する、革命そのものだったのである。
晩年の中江兆民は、かつての党友たちが離合集散・猟官・計略政治に終始しているのを見て、絶望を深めた。
町民はそこまで生き長らえることはできなかったが、愛弟子の幸徳秋水に彼の思いは引き継がれた。
明治の反体制運動の本流は、秩父困民党から初期社会主義へと流れているという思いを深くする。