飯野頼治『飯野頼治著作集1』

 飯野頼治先生の著作集。

 飯野先生とは、埼玉県高等学校社会科教育研究会編『埼玉県の歴史散歩』(山川出版社)でご一緒した。
 私は秩父事件関係、飯野先生は大滝や中津川の史跡紹介を担当した。

 先生は、『百山紀行』(1969 サンケイ新聞社出版局)、『両神山』(1975 実業之日本社)、『山村と峠道』(1990 エンタプライズ)、『秩父往還いまむかし』(1999年 さきたま出版会)など、秩父の歴史や民俗に関心ある者にとって、とても魅力的な本を書かれてきた。
 『百山紀行』はどちらかといえば山行記が中心だが、『両神山』以降の作品は、明治・大正期から昭和にかけて、奥秩父山村の人々がどのように暮らしてきたかを、ほぼ聞き書きによって描き出されている。

 秩父事件に深い関心を持ち、驚嘆すべき熱心さで、地を這うような調査・研究に心血を注がれた諸先輩を、何人も存じ上げている。
 秩父事件研究に人生を捧げられたと言ってよいそれら諸先輩の努力の前には、頭を垂れる以外になすすべがない。
 このような方々を見知ることができたこと自体が、幸福だったと思われる。

 ところがそのような研究者が、秩父の民衆のことを、ごく自明のように「農民」と呼ばれたりするのに、非常な違和感を持つ。
 本会報にかつて書かせていただいたが、「農民」とは、農の営みをもっぱらにし、それで生活を立てている人々をさすカテゴリだろう。
 日本列島に(もちろん秩父にも)そのような人々が存在するのも事実だが、その意味における「農民」は、さほど多くない。

 ごく狭い田畑で小規模な農の営みに従事する人は、数多い。
 秩父の山間部でも、多くの人が多少の畑を耕し、農作物を得ている。
 自然に働きかける(耕し、播種し、除草し、収穫する)ことよって食糧を得ることは、人間の本質であり、なりわい以前の営為である。

 農の営みだけでは、暮らしは成り立たない。
 なぜなら、それによって得られる食糧は、家族が飢えることなく命をつなぎ、支配者に上納(年貢や税)するには、まったく不足だから。

 山間部で生きるということは、何らかの現金収入を得ることによって暮らしを立てるということである。
 急な斜面に開かれたごく狭い畑で、どうやって食糧をまかなうことができると思うのだろうか。
 現代人の想像力の貧困は、驚くほどである。

 山村民は、諸稼ぎによって暮らしを立ててきたのであり、「農民」などではない。
 明治から戦前期ころまで、山村民の暮らしに、さほど大きな変化があったとは思われない。

 この本に出てくる人々は、大正から戦前・戦後初期くらいまでを生きた。
 ここで語られている暮らしが、明治時代の山の暮らしだったと言ってほぼ、間違いないと思う。

 山村の暮らしといっても、奥山山村と盆地周縁とでは、かなり異る。
 盆地やその周縁には、ある程度の平坦地があり、暮らしの中の農の営みの比重が、奥山山村より大きい。
 これを一律に見ることも、正しくない。

 研究論文や書物は有意義なものだが、実際の暮らしを見聞きすることほど、リアルではない。
 この本に出てくる人々は、すべてを具体で語ってくれる。

 山の中で小屋掛けをして下駄を作っていたという宮田七之助さんは、「山下駄の材に用いた川グルミの木は、軟らかくて木炭にならないので、これを買い取った。カワギリ、ショウジ、カツラ、キワダなども素材として利用した」と語っておられる。
 下駄の材料になりうるのは「木」ではなく、「ホオ・川グルミ・カワギリ・ショウジ・カツラ・キワダ」なのであり、それ以外ではダメなのだ。
 どんな樹木にも、それに適した用途があり、それを知らねば仕事にならないのである。

 山村民の重要な仕事として、材木生産・運搬と製炭がある。
 これらはおそらく、明治以降、一気に花形産業化したものと思われる。

 林業機械が使われる以前には、修羅(シラ)や木馬(キンマ)によって木材を搬出した。
 腕力・体力だけでなく、超人的な技術が求められる作業である。
 これらをこなせる人は今、おそらくほとんどいないだろう。

 この本を読んでもう一つ印象的なのは、北陸その他、他国から秩父の奥山に住み着いて、土着していった人々が明治以降も非常に多いということである。
 そういえば秩父事件にも、福井の薬屋(木戸為三)とか千葉の書家(千本松吉兵衛)とか、会津の車引き(伊奈之文次郎)ら他国の人々が参加している。
 秩父の歴史的伝統というような考え方が無意味とは思わないが、それにあまり拘泥しないほうがよいような気がする。

 この本は戦後初期くらいまでの聞き書きなのだが、登場人物が生きた時期として、この本の続編的な位置にあるのが、飯野先生の教え子でもある黒沢和義さんのお仕事だろう。
 『最新・秩父事件』(2024 パブファンセルフ)を執筆する際にも、飯野先生のご著書を大いに参考にさせていただいた。
 本書が世に出たことを、喜ばずにいられない。

(2022,7 まつやま書房 2024,10,6 読了)

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