神奈川県南多摩の政治家・村野常右衛門の伝記。
明治・大正の政治を鮮やかに描く名著。
ちなみに、村野は明治17年に25歳。
まさに秩父事件世代である。
いわゆる豪農民権家。
学習活動や読書によって天賦人権論に目覚め、地域の政治結社から自由党に加わる。
村野の人生に、松方デフレの苦悩は刻まれていない。
これは、ほぼすべての豪農民権家に共通する。
日本の自由民権運動がもっていた、歴史的限界である。
講座派の平野義太郎氏はその点を、論文の中で糾弾するのだが、その批判は当を得ている。
かれらの思想に限界があったことは、彼らの闘いが歴史的に無価値だったことを意味するものでは、もちろんない。
平野氏がいうブルジョア民主主義は、近代日本人が個人として覚醒し、自己を主張して闘った、記念碑的意義を持つと考えるべきである。
激化事件がひとまず敗北し、明治憲法の制定・帝国議会の解説という流れの中で、民権派闘士たちの多くは、民党議員として、県議会・帝国議会に進出する。
旧民権派はいくつかのグループに分裂し、政府側とも合従連衡しつつ、議会政党として爛熟していく。
旧自由党系の本流は、星亨を中心とするグループだったと見える。
自由党時代には大井憲太郎に近かった村野は、星直系の政治家として成長する。
猛烈な干渉の中での選挙闘争も、予算をめぐる議会内での政府との闘いも、それはそれで有意義だったが、寄生地主制が着々と完成し、農業者は貧困の奈落に落ちた。
土地を失った人々は都市に出て、スラムで貧困にあえいだ。
議会政党は、貧困に苦しむ民衆とは無縁のところで、政府とのやり取りに血道をあげていた。
星は伊藤博文と提携して立憲政友会を作り、村野もまた、政友会の重鎮として存在感を増していった。
大正時代に入ると、民衆の実力行動が時代を動かすようになった。
相変わらず政治の中枢を牛耳っていた旧藩閥派の山縣も、旧民権派にして新元老の西園寺も、政党政治家も、民衆を容易ならざる存在として敵視し、民衆抑圧のためには、主義も主張もなく手を結んだ。
村野は立憲政友会の幹事長として政界のトップに登りつめ、実業面でもいくつかの会社の経営に携わった。
晩年には、大日本国粋会の会長に就任した。
国粋会は右翼的なヤクザ組織で、労働運動や水平運動に容喙し、しばしば暴力を行使した。
とはいえ、その歴史的意義については、より深い検討が必要だろう。
著者は、村野の人間性を高く評価しておられる一方、とくに大正政界において村野が果たした役割については、きちんと指摘しておられる。
豪農民権とは何だったのかについて、考えをまとめたいと思っているのだが、村野常右衛門の生涯は、じつに多くのヒントを与えてくれる。
ところで本書中、『自由党大阪事件』の引用中に、公判廷において被告らが「自由」と染め抜いた羽織を着用していた中で、落合寅市だけが赤い囚人服を着ていたという記述がある。
寅市だけがなぜ、屈辱的な囚人服で出廷していたのだろうか。
いつか調べたい。