照山俊三殺害事件と高田事件に関する小説。
これらはいずれも、自由民権運動期における密偵の暗躍について描いている。
著者は、旧自由党員で講談師。
講談本ではないが、史料を読み込んで史実を確定させていく実証的な作業は行われておらず、想像やフィクションで書かれた部分がほとんどだと思われる。
秩父事件に関連した部分でいえば、照山俊三殺害事件について、かなりのページが割かれている。
この部分について、完全な創作かといえば、必ずしもそうではない。
というのは、著者は自由党員時代に照山とともに活動した時期があり、照山の人間像について書かれた部分については、意図的な虚偽でなければ、創作とは言えないからだ。
伊藤が描く照山俊三の人物像が、おおむね当たっているすれば、照山は、大言壮語を常とし、ややもすると悲憤慷慨し、自意識過剰な男だった。
社会的な活動に関わる人々の性格はもちろんさまざまだが、彼は、運動を牽引し、団結を保つべく努力することができない、ダメな人の典型だろう。
照山が密偵だったという証拠は見つかっていないが、伊藤はおそらく、照山を密偵だったと考えている。
この事件のもう一つの重要なポイントは、照山が殺害されたのは遺体発見現場の杉ノ峠か、それとも宮部襄らの確定判決がいうように村上泰治の自宅なのかという点である。
最初の判決のように、岩井丑五郎と南関蔵が実行犯で、教唆したのが村上泰治だとすると、宮部を罪に問うことはできない。
しかし確定判決では、実行犯が村上・南・岩井で、宮部が教唆したとされた。
これにより、宮部の有罪が決まって、彼は殺人教唆に問われ、北海道で長期間の服役を強いられた。
もちろん、宮部の政治生命は絶たれ、明治17年半ばにおける上毛自由党・自由党左派にはダメージとなった。
ところで、確定判決が語る事件の一部始終には、かなりの無理がある。
確定判決がいうように、村上家風呂場において泰治がピストルで照山を殺害したとすれば、なぜ、遺体を杉ノ峠に遺棄したのか、まったく説明できない。
そもそも、重木の村上宅から杉ノ峠へは、一般的には、藤原耕地を通るか風早峠を超えるかして金沢村に出て、杉ノ峠へ登るしかない。
この間、人目につかないようにたった二人(岩井・南)で遺体を運ぶなど、まず不可能である。
この作品で伊藤は、杉ノ峠を、越後へ抜ける間道と形容している。
杉ノ峠は通る人も稀な山深いところではなく、秩父新道から分岐して矢納村や阿久原村を経て群馬県に出る要路で、現在は県道となって自動車が行き交うところである。
村上家で殺害したのなら、遺体を遺棄する場所は日野沢周辺にいくらでもあったと思われるのに、わざわざ人目につく杉ノ峠に運ぶ意味がわからない。
確定判決は、何としても宮部を教唆者に仕立てたい権力側が書いた無理な筋書きと思われ、実際には最初の判決のように、杉ノ峠で岩井・南(そこに村上が加わっていた可能性もなくはない)が殺害したというのが事実だったと思われる。
伊藤痴遊は歴史家ではなく、読み物作家である。
この作品は、確定判決を前提に書かれているから、不自然さを免れていないと言える。