福田薫『蚕民騒擾録』

 群馬事件の全体像を描いた本。再読。ずいぶん以前に書かれたものだが、群馬事件については書いた書物としては、研究書を除けば今も随一の本だと思われる。

 群馬事件は、明治17年5月に上毛自由党の一部が、武力によって政府転覆を図ろうとし、北甘楽郡の困民・博徒とともに武力を持って生産会社(金融会社)を襲撃した事件で、自由民権派の激化事件の一つである。
 秩父事件のほぼ半年前に起きた事件で、計画・組織・規模ともに秩父事件と比べて未熟ではあったが、秩父事件の原型と言える武装蜂起だった。

 群馬事件については、『東陲民権史』にかなり詳細に記されている一方、それ以外の史料が乏しいため、かつては、同書の記述に準拠して語られてきた。
 『自由党史』はほぼ、『東陲民権史』の記述を「パクった」と言われない程度になぞって書かれている。

 『東陲民権史』は、関戸覚蔵が編集した書物だが、史料は、加波山事件参加者の玉水嘉一が収集した。
 群馬事件の首謀者の一人である三浦桃之助(井上桃之助)は茨城県黒子村(のち関城町・筑西市)出身で、事件後帰郷して玉水と交流があるから、『東陲民権史』の群馬事件関係の記述の出どころは三浦桃之助だろう。

 三浦桃之助・小林安兵衛(日比遜)・湯浅理兵らが群馬事件における自由党の中心人物である。
 これらの中に上毛自由党の幹部はいない。
 強いていえば、清水永三郎がいるが、かれは計画段階では計画に関わっていたが、実行段階ではなにもしていない。

 重要人物に、山田丈之助がいる。
 碓氷郡の有力な博徒だった彼は、千人以上の子分とともに武装蜂起に参加するはずだったのだが、事件には結局、登場せずじまいだった。
 年齢的にも田代栄助のプロフィールとかぶるが、山田丈之助の動向とその意味については、未だ研究されていない。

 上毛自由党の最高幹部だった宮部襄・長坂八郎らは群馬事件とは無関係で、照山俊三殺害事件の関係で逃亡生活に入ろうとしており、北甘楽の武装蜂起にはまったく関係していない。

 一方で北甘楽を中心とする負債民は、秩父その他と同様に、極限的な状態におかれていた。
 三浦や小林ら、上毛自由党の中堅と連絡をとり、蜂起に向けた在地のオルグ活動を行う人々もいた。

 秩父事件と群馬事件を比較すると、その違いが浮き彫りになる。

 三浦や小林らは革命の実行に情熱を燃やす青年たちだった。
 彼らはいずれも、20代なかばより若く、インテリ層に属していたが、生産労働に従事する民衆ではなかった。
 秩父でいえば、村上泰治や井上伝蔵がその階層にあたる。

 井上伝蔵は負債に苦しむ民衆と接することによって、自由民権思想を生きる権利の思想へと昇華させ、秩父困民党を組織することができた。
 残念ながら三浦や小林には、それができず、武装蜂起はごく一部の突出した分子による闘いに矮小化された。

 北甘楽・碓氷の東間代吉ら在地の人々は闘う組織を作り上げ、生産会社襲撃を実現したが、闘いはそこにとどまった。
 自由党が困民党と結びついた秩父では、軍隊・警察と闘う巨大な組織が作られ、コミューンを実現するとともに10日間にわたって政府と戦った。

 若くして獄死させられた村上泰治は悼むべきだと思うし、事実彼はじつに気の毒だったと思うが、井上伝蔵でなく村上泰治が秩父自由党の中心だったら、秩父事件は実現しただろうか。

 本書は、群馬事件に登場する中堅幹部たちのその後についても、詳しく書かれている。
 詳細な調査で、心打たれるところが多い。

 ちょっと興味深かったのは、かつての同志で地域の政治ボスへとなった清水永三郎と、役場吏員として村政に尽くした湯浅理兵の対照性だった。
 かつての民権派が、国会開設後にどのような政治的存在となったのか、やや興味がある。

 院外団を従えた地域ボス・中身カラッポの「名望家」なのか、それとも学びと思索を続けて民権思想を深化させ、人間の解放について新たな高みへ昇ったか。
 自分的には、ほぼすべての旧民権家は前者だったと思っているのだが。

(1974年2月 青雲書房 2024,6,21 読了)

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